絵はがき風の猫

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絵葉書の猫みたいに、だれ~っと弛緩しないかな、って思ったけど、サムは「緊張の猫の図」です。いつもは、絵はがきそっくりのダレた姿になるのに、カメラを向けるとぴょんと降りて行ってしまう。思うようにはいかんなぁ。

最近は、龍樹の時代のことを考えて暮らしていますが、いつの時代も、時代ごとの縁起の姿が認められるなあと印象深いです。私の考えでは、密教の流れがやや早い感じはするものの、順序としては納得できるかな、って思います。

六派哲学が形を整えるのが3-4世紀というのも、納得。ブッダの影響を受けて生まれてくるからね。日本では、仏教が伝わって、ヒンドゥー教などは伝わっていないことにはなっているけど、どの世界でも、ブッダを理想としながら、その実、亜流の思想に留まっていると思う。

ブッダの教え「争うな」を実行しようとしながら、実際には、争っている。「わかってはいるんだよ、そんなコトしちゃダメだって。。だけど、わかっちゃいるけどやめられない」っていう道を、人類は歩んじゃってるんだなあ、って思う。

そういう世界を、人は「輪廻」と呼び、「人類の歴史」と呼んでいるのだなあ、としみじみ思ってる。

コメント

  1. カエル より:

    あれ反出生主義のコメントって消えちゃいましたかね?

    輪廻は悪、出生は悪、解脱は善というセールストークはあったと思うので
    確かに「反出生主義」的な面はあったでしょう。

    ただ、お釈迦様のセールストークって方便っぽいので生暖かい目で見てます。
    結局は、自分で確かめてみろってことでしょ?

    論理は結局は論理的推論にすぎない。論理的推論に確信があるのなら実践で検証しなければ推論のまま。

    教師としての釈尊は検証方法を提示した。

    • カエル より:

      すいません。場所間違えてました。

      • mani(管理人エム) より:

        見つかりましたか?
        どこかでコメントしたけど、どこだか分からなくなってしまいました。

        反出生主義って、ヴィバヴァ・タンハー(生存を離れる事への渇愛)ということかなあ、って思ってます。渇愛を三種に分類してる中の一つです。「如来所説」経に載ってるヤツです。
        違う意見もあるかもしれないけども。

        • カエル より:

          コインの裏表、愛憎みたいなもので自分中心の生への執着の裏返しなんじゃないですかね

          アビダンマの分類には関わらず
          シンプルに自然に生きるのがいいなあ

          人の幸せが自分の幸せ
          人の苦しみが減るのが自分の幸せ
          となればいいのではないかと

          そうすると生存から離れるという意味の輪廻からの解脱はどうでもいいかと

          • カエル より:

            ただ、中世以降の西欧哲学用語は極端な創造主中心主義からの極端な反作用に過ぎない面もあるので、なんとも言えないですな。

            印哲が極端なアートマン思想とその極端な反作用というのと似てる。

            ギリシャローマや釈尊や春秋には中道中庸思想があった。

          • mani(管理人エム) より:

            > 人の幸せが自分の幸せ
            > 人の苦しみが減るのが自分の幸せ
            > となればいいのではないかと

            確かに、そうできればなあ。
            つまり、自分の苦しみは消えてないといけない、ってことがわかります。

  2. カエル より:

    哲学チャンネルはなかなか良いですね。
    釈尊についてはわからないときちんと述べてる。
    仏教については仏教という大きい主語で語るので微妙かな。

    他の動画も面白そう。

    • mani(管理人エム) より:

      > 哲学チャンネルはなかなか良いですね。
      > 釈尊についてはわからないときちんと述べてる。

      そうなんだ、釈尊についてはわからないのか。
      釈尊だけわかる気がするわたしとは、えらいちがいです。

      そうかもしれないなあ、って思います。

      有にも無にも近づかない釈尊。。

  3. カエル より:

    返信ができないので、ここに

    >つまり、自分の苦しみは消えてないといけない、ってことがわかります。

    他人の苦しみを知ることやさしくなることは自分の苦しみを相対化すること
    キサー・ゴータミーの流れですね

    • mani(管理人エム) より:

      > 他人の苦しみを知ることやさしくなることは自分の苦しみを相対化すること
      > キサー・ゴータミーの流れですね

      なるほど!納得。

  4. ぎんた より:

    サムにゃん、かわいい~~~~!

    お休みする前に、春間さんにどこかで「ラリってる」と言われた気がするが、、、見つけられなかった。
    平常運転なのに、、、な、、、
    前に、おちゃらけさんだったか、「春間さんはマニカナの妖精」て言ってて、普段言ってることが全く
    解らなくてすごくストレスだったから(そっか~~~妖精か~~~~~)と心が救われて今があります。
    その妖精をオトッペのウィンディに設定したところ、春間さんが何言ってるのか解らない時ほどウィンディに癒やされるというステキな状況に!!!それは特にココに書かなくてもいいと思っていたんですが、
    なんと!今月の29日で番組終了なんです!!ありがとう!オトッペ!感謝しています。歌はたくさんある
    けど、「せんぷうきチューン」が一番かなー?ぎんたがDJシーナ役です。

    あと、1月末位にやっとこさ気づいたのは、最初純陀きゅんはお釈迦様と話がしたくて行ったんだけども、
    文殊さんが「お釈迦様は体調がお悪いのでわたしが、、」とかなんとか言って、2人で話したんだけれど、文殊専門用語バリバリで純陀きゅんとちーーーとも話がかみ合わず、困っているところへお釈迦様がやってきて文殊と替わってくれたんじゃないかな?で、お釈迦様と純陀きゅんが話しているのを横で聴いていた文殊さんが、「、、、、、、、、、、、、、、」←第三者というか、自分は話さずに聞く側に徹していたからこそ、何か、、深く理解して、将棋の藤井君みたいに先の先の先までずーーーーーっと手を読んで
    (3000年分くらい?)で、今に帰ってきて、「自分のやるべきこととして」実践したのが純陀きゅんを
    殺して、仏教関係者(犠牲者ともいう)にすること?だったのではないかな?合ってる---??
    春間さん!!文殊の智慧をぎんたの考え得るギリギリ一杯で考えてみたyo

    でも、こんなのぎんたが考えることじゃないよ?効率悪いじゃん。春間さんがきちんと教えてくれないと
    いけません。「修行」なんかしてたら人生終わっちゃうじゃん。
    だから正解をおせーてくれよーーーーーー

  5.  春間 則廣  より:

      教えることはできる けれど
        すること は 教えられない
       (  何をどうするか が わからない ? )

     しないこと( 出来ないことなら ) している( 教えている )

         しないこと
       ( わかることを しないこと = わからないから できないこと )
          すること = わかること =      わからないこと
       (  わかる ということ を しないこと → わからないこと   )

       読んで分からなくとも  ↑   見て分かるように工夫している
       (  それでも=みても     わからない こと も ある  )
      
       工夫が足りない  ?     読もうとしない ?
       見ても分からない ?     分かるまで 読む ( 気にならない )

           気にはなるけど  わからない ?

          おもしろくまとめてみたけれど  おもしろく ない ?

    • ぎんた より:

      え?ちょっとさっぱりだ、、、、

      そうそう!1月にいい本読んだんだー!!

      『神と黒蟹県』絲山秋子著!!(ばーーーーん!!)神を勉強しようと思って!!!

      神は~「半知半脳」で~、同時に2店舗のそば屋で蕎麦食べれるけど、誰も気づかない、、、と。

      すっごい勉強になった!!!!

      •  春間 則廣  より:


        > え?ちょっとさっぱりだ、、、、

         ちょっと   工夫している よう ? だけれど
         ちょっと も  伝わらない
         
         と 聞く と  ちょっと 残念

          其の残念さ を  糧にして

                    アテなきがごときに荼毘 を続ける

          はてるまで 続ける  あてをしない 度毎 の かかわり

                    ( アテ とは 外れるモノ )

           読めなきゃ 伝わらないけれど

            見えれば 伝わっている( 見ている 相互 )

              想誤    腐心

  6.  春間 則廣  より:

      示してみたけれど

       一瞬にして 消えた ( 消した ) 、、、、

       もう一度 がない 一度 の 「 度 」

  7. 慧樹 より:

    ……………………………

    苦の絶対化も相対化も妄想
    ……………………………

    「らりっている」――なつかしき薬物中毒者を指す言葉だ。
    仏から見れば、私たちは、「貪」「瞋」「痴」と呼ばれる三つ「心の毒」に
    よって「らりっている」そうな。その根源と言えば、自己中心性であり、
    言語による相対分別だという。

    私たちは皆、「三毒」によって「らりっている」。

    「オトッペ」の擬音は、その相対分別を離れた「不思議な擬音」で、その
    音から「不思議な生き物」が生まれて来る。私たちも、「不思議な擬音」
    から生れた「不思議な生き物」なのだろう。哲学的には、相対分別を離れ
    たところに「無限の可能性」があるということだろうか。

    「オトッペ」の底に「空の言語哲学」があった。

    苦の相対化(差異化)—―自己と苦を切り離し、相対化して「俺には苦な
    どない」と自分の感情に鈍感となって“らりっている”オッサンも多い。
    痛みがないのなら手術の時に麻酔はいらないと思いきや、その時は逆に
    苦を絶対化(同一化)して、苦しみに七転八倒する自分に気づくだろう。

    苦の相対化(差異化)は「断滅」という妄想に過ぎない。

    それとは逆に、何か辛いことがあって、苦と絶対化(同一化)してしまい、
    苦しみ悲しみにうちひしがれている人もいる。私にも経験があり、それが
    やがて、苦を相対化して苦から逃避を計ることになり、自暴自棄な行為に
    出る羽目になる場合もある。

    苦の絶対化(同一化)は「常住」という妄想に過ぎない。

    ならばどうすればいいのだろうか?
    釈尊は、苦楽中道・断常中道・有無中道を歩めと言われる。
    具体的には、自己の内なる「三毒の苦」をよく観察できる「整えられた自己」
    を得よと『ダンマパダ』で言われる。

    160、自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
    自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

    日毎に静かに自己を整えて、自己の内なる毒を除きたいものである。
    童子に帰り『ダンマパダ』を読み返してみた。

  8. 慧樹 より:

    ……………………………………

    文殊菩薩に熱弁するチュンダ
    ……………………………………

    文殊菩薩とチュンダのお話。たぶん『大般涅槃経』の「純陀品」だろう。
    文殊菩薩に説法するほど覚っているチュンダ。釈尊を過失致死に至らしめ
    たチュンダが文殊菩薩に説法をしている。始めて読んだときには「何で
    チュンダが悟っているのか?」という違和感があった。

    そして文殊菩薩はチュンダを褒め讃え、釈尊もチュンダを褒め讃え、
    その後に釈尊の説法が始まる。自分の死を死に至らしめたものを讃嘆する。
    自分を死に至らしめたものを讃嘆する。

    恨み心という毒気のある私には、自分を害するものを許すことなどできない
    から、投げ捨てたくなるほどの違和感があった。

    チュンダへの讃嘆は、過失の罪に苦悩するチュンダへの労りであり、慈悲
    であることに気づくには「梵行品」まで至る必要があった。

    一切衆生悉有仏性とはいえ、自分を害した者を許し讃嘆する大慈大悲は、
    理想であっても私にはなく、そんな仏陀の大慈大悲にただ跪くばかりだ。

    それでも、大慈大悲という平等性智への可能性が私たちに在るというから、
    内なる大悲という観音菩薩の名を呼び続けていたい。

    平等性智を得たところが即身成仏。
    そしてそこから利他の修行が始まるという。

    • ぎんた より:

      、、、、、、、、

      お釈迦様は~すでに死ぬ日も原因もガッチガチに決まっていて~~、その原因として純陀きゅんの行動が

      引っ張られてきているわけで~~(前回の地球の通りに)

      【純陀きゅん自身がどうこうではないの!!】そこに配置されたらそう動くしかないの!!

      選択肢はないの!!なんなら、仏教なんて始めてすみませんなの!!!ばーーーかばーーーーーーか

      悟ったって悟らなくったって起こることは一緒にゃのーーーーーーーーーーーーーーー

      • ぎんた より:

        あ、でも今回の地球が終わるまでに悟れないと、その悟れない人がお釈迦様担当俳優にされちゃうにょ!

        やばい、、、お釈迦様役にゃんてぜってーーーやりたくにゃい!!新婚の奥さんからひっぺがして

        出家さすにゃんて究極的に非道な人間なんて残念すぎて泣けてくる。。。

        ああああああーーーーーどおしよーーーーーー

        • ぎんた より:

          あ、慈悲?そっか、じゃあ、、、

          いっくら時代とはいえども、人にごはん恵んで貰ってやっとこさ生きていく人生を終えて、

          次はなんと!王族に生まれたくせに、むちゃくちゃ違和感あるからって、出家しちゃって、

          結局前世と同じく施しを受けての人生、しかも人を巻き込んで、、、(死んじゃった人もきっと

          いるんだぜ?)最悪ぅーーーーーーー可哀想ぉーーーーーーーーーーーー

          「置かれた場所で咲きなさい」って言葉、まだ生まれてなかったからね~~~

          知ってれば王族として領民に愛される政治とか目指したり出来たのにね~~~~~

          まぁ、置かれた場所で命の危険があるならば、素早く退避しかないでしょうけれど。。。

          可哀想すぎて、ヘライザー総統になっちゃうよ!

          • ぎんた より:

            てかさ、純陀きゅんが用意した料理に毒を入れたのは、誰か他の人でしょうが怒!!

            それが誰なのか、は追求しなくてもいいけど、何があったのかは明らかにしないと同じ事が

            起こるんだってば!!ね?

            昭和11年に新しくお堂が出来て(真澄寺)引っ越しの時に、猫は自ら逃げちゃったんだか、

            「お堂に傷つけるから捨ててこい」って言われて捨てにいったのか、誰かが水に沈めちゃったんだ

            か、色々考えられるんですけれども!本当のことをおせーてくれないと、将来ぎんたが特養とか

            に入った時に誰かに浴槽に沈められちゃうかもしんないんだにょ!!いいよ、余命短いんだから

            ちょっと苦しくても楽にしてくれてどうもありがと!位だよこっちは!でも、相手様が!私に

            引っ張られて犯罪者になってしまうじゃないですか!!!申し訳ないじゃ済まされないんですよ!

            あの危険な団体のせいで!!だから真相究明はよ!!

  9. 慧樹 より:

    …………………………………………………

    【論争】は【怒り】を生み出すから止めよ
    …………………………………………………

    『スッタニパータ』第四章の「論争するな」にも多義があり、それは、
    「自己の見解に執着するな」「党派別立場に立ってはならない」「他の
    見解を無暗に排除するな」と意味付けされる。

    しかし根本的には、「論争が怒りを生み出すから止めよ」だと痛感する。

    自己を明確に表現する民主主義には議論を付きものである。
    しかし、そこに【怒り】を持ち込んではならない。
    理性論理に基づいて自己の見解を述べよ。
    そして、他の見解も尊重し排除してはならない。

    議論と論争は違うようだ。
    論理(理性)による議論は怒りを生まない。
    闘争(情念)による論争は怒りを生む。
    而して、【怒り】を生み出す【論争】はするなということだと思う。

    スポーツマンシップも、競技に怒りを持ち込まないということ。

    怒りについて分かったような顔をしている私だが、怒りによって、
    どれだけ人を害し、自己を害してきたことだろうか。

    聖徳太子の『十七条憲法』第十条に次のようにある。
    「忿を断ち瞋をすてて、人の違うを怒らざれ」
    「忿」「瞋」「怒」と使い分けているところが見事だ。

    「瞋」という大煩悩には、「忿」「恨」「悩」「害」「嫉」という小煩悩
    が含まれると唯識のアビダルマでは言う。恨は恨み、悩は一人よがり、
    嫉は嫉妬だが、最も問題なのは、自己と他者を害するという【害】だ。

    【瞋】=【害】

    私は、どれほど人を害してきたことだろうか。たとえ殺されたとしても
    文句は言えない。それは仏教が自己のものになっていないということで
    ある。

    仏教を自己のものにするために、ゼノンの『怒りについて』を注文した。
    YouTubeからの紹介である。

    https://www.youtube.com/watch?v=JryJa_ZTAGA

    仏教とストア学派は深く交流していたようである。

  10.  春間 則廣  より:


    24.03.11 8:13

      げに ふかかいなる こと

       明らかになってはいないこと は
        明らかには  オコッテ は いない
        怒っていては 行けない ところ が ある ( 起こっている )
        起こって あっても ( 存在しようとも )  起こせない ところ
        怒らずにいても 行けるわけではなく 行けないわけでもない

         いけないことか いいことか は 判断の基準 で 変わる

        途中で 基準を変えると 行く当て が 変わってしまう
      ( 答えをモトメル  基準が変わるから 答えは 変わってしまう )
        変わっている自分  に    変わらない生自分を重ねると 
           変らない自分 だけしか   見えない
     ( 変えられてしまった 自分  は  自分の影に隠れている )
     
           影の中 で  光を探す  

         骨を折ろうと 折ったところ は 太くなって 再生する
                (  「 りんね 」 の 構造である  )
         折れ曲がる道  の  真ん中 を まっすぐ歩いても
                       道 は 折れ曲がっている
              ( 曲がっている とき  は  真ん中にいる )

         曼荼羅 は  曼華 の ごとく  偈 に 顕われる

          げに ふかかいなるひとのよ そ うたわれむ
                かたじけなくも ききおよぶ

    • ぎんた より:

      ん????さらにわがんねー。

      先月、某所に梅を観に行って、菅原道真んトコから貰った梅の木っつーのを観て思ったんだけど。

      学問の神様だと祀って有り難がることで、御霊を鎮めるという作戦らしいんだけれど、多分効いてない。

      菅原道真みたいな実力のある人が、きちんと実力に見合う登用をされる社会を実現するんだ!!と

      理想を持って勉学に励む時、その人がきっと道真本人だと思うにゃ。たった一人にゃ!!でも、

      誰がその一人かわっかんにゃいから、兎に角やってみるにょだ。きっと全員道真になれるにゃ!!

      本人はひとりにゃんだけれど、他のひとだって「道真タイプ」だから。という「私な仏教」の設定。