遡ってみる猫史

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2011年12月23日、拾ったときのサムにゃン。雪の中に落ちててもちあげたらニャーとかぼそくないた。生まれてほんのわずかしか立っていない子猫だった。目やにでガビガビ、目もあけられず、水も飲めなかった。写真撮って見たけど、目が真っ赤だね。その時から鼻炎のような症状が抜けません。

次の年2012年5月13日、「オタクのサムちゃんがうちにきてますよ」ってお隣のお姉さんがダンにゃンをだっこして連れてきた。き、きったねぇ~。。「あれ?サムは家にいますけど」と答える間もなく、スルッと我が家に入り込みました。。ダン!やさぐれてるぞぉぉ~。。

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どうやら、父母共に野良猫のようで、数か月前にどっかのガレージで子どもを産んだ猫がいたそうな。兄弟かも。。亡くなったおばあちゃんが名付け親。寒いときに拾ったのでサム。暖かいときに拾ったのでダン、って。そう名づけたのに、「サムはハンサムのサムで、ダンはダンディのダンです」とちゃっかり説明してるから、おかしいです。

こうして、サムとダンは我が家の住人になりました。もともと兄弟だったかも、ね

陽気で人なつこく、人間はぼくの奴隷だと思ってる愛嬌サム。

猜疑心が強く、人間はぼくの敵だと思ってるお尋ね者のダン。

だけど、二人は仲良し。。なのかな?!よく分からないけど二匹は友だち、運命共同体。

ぎんたさまの述べるとおり、

「自分で選んで」ここんちの子になったのだ!かもなあ。。

雪の中に黒いものがあってなんだろと思ったら、ちび猫のサムにゃンでした。あと1時間そのままだったら助からなかったと言われました。

ダンにゃんもお隣のお姉さんにしっかりだかれてやってきたけど、その時の顔が上の写真だから。。それ以降、誰にもだっこされません。人が来ると隠れて出てきません。過酷な中を生き抜いた、って感じです。チョーびびりです。

二匹は、家の壁をひっかいて、暮らしてる。

コメント

  1. ぎんた より:

    サムにゃン、瞬膜癒着しなくて良かったですね。ダンにゃンと似ているから兄弟と思います。お母さんは
    何歳なんでしょうね?子供と半年しか違わないのか、、、二匹とも「ハチワレは世界を救う協会」の会員じゃないですか!ぎんたんはサバ白でハチワレです~

  2. mani(管理人エム) より:

    瞬膜癒着?!そういえば、すぐ入院したんだった。二日後退院して、そのときの写真でした。
    お母さんは、おそらく外猫のニボ。いつも煮干しをあげてたから、ニボです。お隣では、アラスカ(高級かにかま)もらってた。お隣では、名前は「ヒメ」。一軒変われば品変わる(ところかわればしなかわる)
    サムは、変則的なハチワレです。救う者は救われる。。の図ってところかなあ。

  3. 春間 則廣 より:

    * 

       作務 は ( たく ) 鉢  ー  我 は 底割れ

    > サムは、 変則的なハチワレです。
            救う者は救われる。。 の図  ってところかなあ。

      サム オブ 是無 ・ 通 応 是無

         救われる者 が  救う 世界

       す「 空 」者 が  掬う「 世間 」

      A MI から 漏れている THA ( BUD に 於いての A MI )

       ソレミタコトカ と ソレを真っ直ぐと 考えて 反りを重ねる

       そりかえって  ソレヲミルトキ
        廻る縁 は   真Aーるく A仮るく 収まる
         終局 は   過度 に 収まる

           カドー  カ ヲ  カンガエル

        考えても始まらない 年の始めに 発 日の出

          初出 か 波津出 か ひとつなみ

          ワカル ヨ― 奈良  京都  行く

    • ぎんた より:

      あぁ、、、お願いしたら文章分かり易くなった!!と喜んだばっかりなのに、また暗号文に戻っている。。。

    • 春間 則廣 より:

      > 9日からこっち、考えようとすると頭に霞がかかってどうしても思考できない。

      作務 : “単なる” 「 食 」 を 得るための 、日々の 様々な行ない
               ( 食べるもの に対して、  好き嫌いを言わず

      ( たく ) 鉢 :  得ている「 食 」 は  すべて、賜りモノ

       底割れ :  底の底 において、 好き嫌いを言う我 は
              我 というものに 価値を置きすぎて、割れ目に落ちる

        ここからは  むつかしい

          色々な 作務  それらの多くは  価値に差はない
          それらは “ 通い合う ” が  差を見出すところにはない

         救われている故に 眼の前( 眼の後ろ )で
          “ 溺れる ” = 苦しむ  自分 に
                      なんとか手を差し伸べようとしている 

        溺れている 自分 を 自分で 助ける  ことは  不可能  ?
                差し伸べられた“手” を とるのは   誰 ?

           可能 ・ 不可能  という 二つの自分事 に
                 手を差し伸べるのは  自分事 ? 他人事 ?

        「 世間 」 : ローカダーツ ・ 価値によって分け隔てる心の
                       居場所

        阿弥陀仏(アミダブツ)とは 否定の A 価値観 の MITA 
                         「 平等 」 に 住す
         成就者

      > ソレミタコトカ と ソレを真っ直ぐと 考えて 反りを重ねる

        反れ ていることを 知って そこで ( 知ったこと ) で 
          “十分” 満足している “ 知 ” に 囚われる「 自己 」 
       ( 満足 とは 不満 が その一時 に於いてのみ
                       隠れている状態 )
        逸れ を 知ろうと・知っても 反れ から 外れることが出来ない
          反り を 重ね 得ている   知: 自己の価値観による解釈    

         反れ から 外れる ことが出来ない
       :  反れかえって “反れることから 逸れれば”
                    “ 真 歩く ” を 知る     
       ( 頭 が“地に着く” と  それ以上 逸れることがない )

        龍樹 は 常に   「 自己 」  の      「 仏性 」  に対して
        頭を地に着け  自身が地に立っている と「 智 」を 得
          地道 に   地に於いてのみある   「 道 」を 歩む

          そりかえって  ソレヲミルトキ
          廻る縁 は   真Aーるく A仮るく 収まる
           終局 は   過度 に 収まる

      >       カドー  カ ヲ  カンガエル
      >    考えても始まらない 年の始めに 発 日の出
      >      初出 か 波津出 か ひとつなみ
      >      ワカル ヨ― 奈良  京都  行く

         分からないから  奈良 や 京都 の “意味” を 尋ねない
          ( 分からずとも 誰でも 歩める 平常~平安 の 道 )

        いくら こう言っても
            歩かぬ理由 は  いくらでも 見つけることが 出来る
                     霞んで 昏い・たそがれた  道を歩む

  4. 慧樹 より:

    悲しき猫の写真で童子歌。

    朝寒や
    被災の方に
    励まされ
    共に生きたく
    仕事に向かう

  5. ぎんた より:

    春間さん春間さん、こんなのどうですか~~~?ぎんた、考えたの!

    ものすっごおおおーーく、頭脳明晰な人がいたとして、会う人会う人(うーーーーん、自分よりかバカ、
    自分より遙かにバカ、バカ過ぎてお話にならない、、この人はちょっと惜しい)と思っている場合、(当たり前だよね、だってそれが賢すぎる人の真実だもん)来世人間になった時は、どこか、今世の時より残念な頭脳に育つ環境へ行くの。だって、(バカ、バカ、バカ)て言葉で自分の行く先を自分で選んだんだもん。
    ね?科学的でしょ?(ぎんた科学よく知らないけれど、科学的っつ-のに憧れ&敗北感があるの)

    これを、容姿の醜美とか、悟っている・いないとかにも使ってみればよいかと。

    なので、ひたすらに「南無阿弥陀仏」してたら来世「阿弥陀になる」わけですよね?でも、「南無」が
    入っちゃってると、、どうなの?帰依しちゃうの?すると、仏門に入るの?で、ご本尊様に帰依するの?
    そこはその宗派の人に訊かないとわからないとこだけれど、ほら、ぎんた「八正道」とかしないから
    (猫だから)正見て言われても、、、困っちゃうから、当事者の人(ほとけ)に実際の仕組みを訊きたい。みんな知りたいと思うんだ。2023年は「パラ高」に出会って、全部観たと思うんだけれど、「あざまる水産~」の未来ちゃんが(しゃべりがクセになりすぎるぅ)「うそはだめだよ、て言ったら本当のこと教えてくれた。」てあって。。。本当のこと!!知りたい知りたい!!!そういえば、、
    元号が令和に変わった頃、ちょうどTVつけた時に、なんか?バラエティかなんかやってて。そこで、さんまさんかな?だれかが進行してて、ひな壇の(壇ではなかったかも)若手女性タレントさんが、
    「令和の時代は嘘はダメ!(きっぱり)」と言っていて、さんまさん(ほとけ)が「あ・そーーーーーぉ、嘘はダメかぁ~~~~(ニコニコ)」というシーンに遭遇し、その女性タレントさん(ほとけ)のきっぱり感に背筋が伸び、(そうなんだ、そういう時代なんだ!)と思ったのです。要するに、あの危険な団体の人は説明すべきことがあると思います!もし、直接は無理なら、文春砲方面に情報を流すとか。あの、シン・ゴジラであったじゃん、高良健吾と松尾スズキでやりとり。あ、しかも昭和記念公園じゃなかった?立川立川www

    • mani より:

      > ものすっごおおおーーく、頭脳明晰な人がいたとして、会う人会う人
      > (うーーーーん、自分よりかバカ、
      > 自分より遙かにバカ、バカ過ぎてお話にならない、、この人はちょっと惜し
      > い)と思っている場合、

      ここは、ブッダの一切智じゃないですね。自己の煩悩を押し広げているだけ。。とみるのじゃないかな。
      ぎんたんが‘春間脳’になって考えられるとき、ぎんたんは一切智を得た、と言えるかもしれない。

      ぎんたんが‘ぎんたん脳’で考えているなら、むしろ、我執にとらわれている、って、仏教では、見るかも。

  6. 春間 則廣 より:

    > 人に訊かないとわからないとこだけれど、

         聞いて 分かると  思うと  おお間違い
             たとえ    聞かせる人 が 管理人エム 様  でも
         (聞いている人の)していること が  下敷きになって はじめて分かる

         命がけで していること が 下敷きになってなければ、 わからないこと
       ( ただし  “分かる・認識” という していること   と
                  認識に昇らずに  していること とは
                  いつもは 一つにならずに 分離 “している”  )

         古い経にあるように   胴から 首が 落ち掛かっている  、、、、、

      人は だれでも   命がけ で 生きているけれど

       生きていることを 命がけで 認識しようとする人 は

                ほとんどいない

        人であり、ほとんどいない人 を 菩薩 とか 仏 とか 呼ぶ

       認識するから 認識に価値が生まれるだけで
       認識 を  離れることが出来る  のであれば 
       ( 菩薩 とか 仏 は )  「 友 」 と 呼ぶこともある
        かつて 牟尼 は  このようにウダーナヴァルガを 口にした 
      「 わたしにおいて もっとも 大切なこと は
                     友 と 共にいる ということ 」
              
    > ほら、ぎんた「八正道」とかしないから

        「 八正道 」  って  ナンノコト ?
           なんなく わかる かんがえなくとも つかえることば
             至極 簡単  当たり前 の こと

    • mani(管理人エム) より:

      > ただし  “分かる・認識” という していること   と
      >               認識に昇らずに  していること とは
      >               いつもは 一つにならずに 分離 “している”

      ぎんたさま、これは本当です。
      認識に昇っていることと昇らずにいることを知ることが、一切智です。

      そこを昇るようにさせたのが、ホトケ。。えらいこっちゃよ、ホトケさまさま 

  7. カエル より:

    サムエル「神(エル)は聞いてくださった」ダニエル「神(エル)はわたしの裁判官」

    狛犬、シーサー、阿吽の金剛力士につながる2匹ですな。

    ありがたや~

    • mani(管理人エム) より:

      阿吽の金剛力士で思い出したけれど、

      野球の大谷選手の顔、どこかで見た顔だなあ、って思ったら、運慶の彫った八大童子像にありました。
      きりっと潔いお顔。

      サムエル、ダニエル。。かぁ。。ありがたい、家を選んでくれて。

  8. 慧樹 より:

    真言密教の、不動明王に仕える八大童子のご紹介をありがとう。
    御礼に「恥じかき歌」

    大谷さん
    八大童子に
    ご変身
    やさしくもあり
    きびしくもあり

    それと関連し大河「光る君」にちなんでもう一首。

    危険なる
    私を暴き
    知らしめる
    仏の応身
    紫式部

    透明なる不動明王と観音菩薩が仲良く相即相入。

  9. ぎんた より:

    9日からこっち、考えようとすると頭に霞がかかってどうしても思考できない。キャパ越えすぎっちゃ越えすぎだけど、それ以外になにかあるのかな?「何が原因か」考えてみよう。

    ①Data~(←シン・仮面ライダー、第2世代外世界観測用自立型人工知能 ケイの声で)不足

    ②面子が足りない

    ③面子の選択が間違っている

    ④回り中みんな「あったりまえに」知ってることを、頑張って考えています、てしている残念感

    ⑤もう、すでに待っているしかない状態で出来ることはないのに、無駄に考えている(思考したい欲)

    ⑥「あの危険な団体」が潰れたのを確認出来ないことには、「ここまでは正解」と思えないため、
    これ以上考えても間違った方向に行くだけでは?という逡巡。(これはデリケートな問題で私という
    ほとけが潰したくったって、被害者全員(ほとけ)が納得して「残すことを赦す」と言えば残るでしょうけれど。(これこそ奇跡の領域)

    まあ、とりあえずこの位で。

    • ぎんた より:

      ⑦自分以外の人が強く押してきた意見を聞いて(そっかー、その方面から考えるとこんなこともありえるか)と自分の中に新しい考えが突然誕生することに期待しているので、春間さんの主張待ち。

      ①これを思うと楽しすぎて、ちょっとストレスが和らぐ

      ②まだ「地獄掲示板」だった時、「イスラム教に昏すぎる」ことが心配だな、、、、と常々思っていた。
      今はメッター様がいないから、キリスト教方面がイメージ湧かない(なんつっても神の溝知るだし)
                      ↓
              あ!あ!三位一体じゃね?(だってこれしか浮かばないんだもん。。。)

      猫=空。の空間にお釈迦様vs純陀きゅんの二人を対峙させているからダメなのでわ?しかもだよ?
      令和6年の日本が使えないじゃん、これじゃ、、、私、私を潜り込ませないと!飼い主のほうの私。。。

      私は何が関心事でしたっけ?えっとぉーーーーーーーーーーーーーーー、、、、あ!!
      「文殊の気持ち」がずっと気になっていたんだっけ!あーーーーーーーーーーーーーーーーーーそうだ!
      思い出したーーーーー。ずっと一番気になっていたこと!!ふーーーー、、危ない危ない忘れるとこだった。
      文殊くんといえば、「三人寄れば文殊の智慧」じゃないかぁ!!!来たコレ!もーーースッキリ!!

      ふーーーーー、ということで、春間さんは「中国の老師」なんですけれど、前があって、もちろん
      仏教教団の「文殊くん」でしゅ。凡人=ほとけでしゅから、凡人3人集まっても智慧はでましゅけれど
      なにしろ、先生龍樹なほとけ、春間さん文殊なほとけ、私一般市民代表(純陀&動植物たち)なので、
      春間さん、娑婆世界のために智慧をくだにゃい。さ、はやく。
      (どうりでイライラしてる感じがしたぜ)

      ふ~、首の皮一枚繋がった気がした地獄掲示板でのメッター様(イエス)との出逢いだけれど、やはり
      キーマンだったぜ。胴に辛うじて首載ってるって、伊藤潤二世界みたいだ。

    • mani より:

      > 9日からこっち、考えようとすると頭に霞がかかってどうしても思考できない。

      ここを読んですごく考えました。もしかして、その「危険な団体」をぎんたさまは仏教だと思っているんじゃないだろうか、って思ったの。
      「危険な」という枕詞がついた段階で仏教からはこぼれ落ちると思ってます。
      誰かが「嫌だな」と思った瞬間、それは仏教ではなくなる、そういう法(教え)からなっているのが仏教です。

      ブッダ(=ほとけ)は、「苦しみの滅」を最終段階に掲げて登場した。

      だから、自分も他者も、苦しみがなくなっていないと、仏教にはならないのです。

      • ぎんた より:

        あの危険な団体の開祖だかいう人が「仏陀直伝」とか言うの。でもって醍醐寺で修行して伝法灌頂2種

        受けて、国訳一切経読んで、、、と家族に説明すると「醍醐寺から金で買ったんだよ!!!!!」と

        言うの。我が家のほとけが。でもって、「そいつ漢文読めたのかよ?本に漢文読んだと書くことは

        いっくらでも出来るよ?お前そいつが漢文読むの実際見てるのかよ!!!!!!!!」

        ぎ「、、、、、、、見てないよ、、、、、、、、、、、生まれてないもん。」

        • 春間 則廣 より:

          > 「そいつ漢文読めたのかよ?本に漢文読んだと書くことはいっくらでも出来るよ」

           紀野一義氏 が わたしの書斎に着た時の話
            わたしが、「 漢文(経)を読むときには、 藤堂明保 漢字語源辞典
             がないと、 意味がわからない 」 と 話したら、怪訝な顔をした
             ( 前提として、 わたしは、 白文 の 漢文が ほとんど読める )
             ( 国訳の一切経 なら 三種 を すべて 読み、 比べている )
            訳経 というものは、並大抵の(漢文)知識 では、 為されてはいない
             その点、鳩摩羅什 の場合 は 見事な 漢文になっている
             また、 玄奘の場合 は、国家事業として為されているので、
             漢文としては、( 全く ) 見事であるが、( 内容としては )
             ( 菩薩に対しての経 として ) 問題点がある
              “ 菩薩に対して ” と “ 凡夫に対して ” とを、
                    混同して訳文としている
             “凡夫” が  「 経 」 を 解すること が 出来ないのは
                   解することが出来ない者 が  “凡夫”であるから 
           ( つまり ) 解することが出来ない者 に対して の  「 経 」 

            わたしが、 ここに 書いて、上げる記述 は 
             凡夫 が 解する者 に なる為の “ ヒント ” であり、
             “ ヒント ”  を 基にし 、 自ら の 力で
                               ( 「 他力 」 を知って )
                        「 経 」 を   読み解けるようにするため
                     ( わたしの力 は  「 他力 」 ではない ! )

             「 他力 」 というモノは ( 求めて 得られるモノ ではない )
                与えた時 に 初めて 起きるものである

            “ 自ら = 我 ” を 離れるとき( 「 禅 」 ) に
                 それは 訪れている ( 行ずる 禅 に も 訪れる )
              「 行 」 ずる 禅 は  随眠(惰眠) をも 「 禅 」 と化す

            道元 は それを “ 知り ”  只管打坐 を 見せるのみ
              ( 「正法眼蔵」 は  「 禅 」 で 読んで 初めて 分かる )
            言葉の二重性 を 知って 、 和文で 書かれている
              ( 白文には前後がなく、音は複合の意味を示す )
            和文 は その 語彙 の 少なさから 、
                “ 知 ” ( 新皮質 への 偏り ) を 防ぐ手段として
                    最も 適した 「 言語 」 であり 、  
                それを 受用した “漢語” を 用いることにより
                   ( 菩薩にも届く ) “ ことば ” としている

           ( おそらく ) 大陸の中国人 で  「 経 」 を 解する人はいない
           ( 香港 と 台湾  になら、 いる “ 可能性 ” は あり得る )

             この 日本  では 管理人エム 様 が “ 筆頭 ” で あろう

            それほどのこと を “ これを読んでいる あなた ” に 届ける

             意味を解せず、礫を投じられることは 厭わない
                     ( そこから離れる の 身 )
              「 イ シ 」 は  居るところを知らず ( 「 不知攸厝 」 )
                         『 風信帖 』  に 顕わされている 
                                  ( アラ ワ サレテ イル )                  

               ワカル ( 吾 借る ・ 話 仮る ) ということ を
                    “ し る ( なして 留める )”

                そういうこと を “ 新皮質 の 奥 ” に 届ける
                  シンヒシツ ノオ ク( 真秘悉能遠苦 )

             『 妙法蓮華経 方便品 』
          諸仏智慧甚深無量 其智慧門難解難入
            “一切”   声聞辟支仏 所不能知所以者何
           仏曾親近百千万億無数諸仏尽行諸仏  無量道法勇猛精進
           名称普聞 成就甚深未曾有法     随宜所説意趣解難。

          • 春間 則廣 より:

            正信偈
              「 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 」

                  不苦者有智  「 福 は 有 智 」
                  遠仁者疎道  「 音 に 者 みちを うとう 」

                「 届 真秘 悉能 遠苦 」 
              とどけし 姫 し まこと ことごと く とおき くるしみ 

              「 つつしみ つつしみ ま うす
             
                     とどけし ひめ し
             
                ま こと  こと ごと く  とおき くるしみ 」

          • ぎんた より:

            うわわゎゎゎーーーーわ(ああ、ミチオさん元気かな)途中までは、超絶エモいって感じにゃのに

            他力と自力が出てきた途端、霞が~~~!!他力と自力について言語化されたものがどうしても

            理解出来ない~~~~~あの、こういうときに「ゆっくり解説」があるといいのに!!あとは、

            「パラ高の未来ちゃん」がサクッと&ゆる~く発言してくれるとか、、、。あのさ、マニカナに

            来る前に、密門会 昭和大仏 青龍寺(青森県)の「密教こそ絶対他力の易行道なり」がとても

            いいなと、超同感、まじコレしか無理、なんかうっすら~と思っていたことをもの凄く肯定して

            もらった気ぃするぅ!!と思ってしまったので(洗脳されたのかにゃ?)違う難しい表現が

            受け取れない体質になってしまったのだろうかと思いました。「自利利他円満」とどう違うのかも

            分らないが。。。ぎんた的には、「すべてのことがもうね、絶望的レベルで他力にゃんだけれども

            なんかそこに自らの価値(私ならおもしろ)を足して、自分も一枚噛んでるかのように錯覚して

            いけ」みたいな?、、、、、、、、、

            ん?未来ちゃん?、、、、、、、、      、

            あと、この下の春間さんの文章には返信付けられないの、やはりなにか意味が、、、、?

          • ぎんた より:

            でしゅから~、現代の中国人の「中の人」が中国人じゃないからでしょおー(何人かは分らない)

            春間さんは日本人だけど、中の人は中国人じゃんか。で、おれ猫。もーーーーーーー

            しっかし、「中の人」っていい言葉だよねぇ。誰が最初に使い始めたんだろう。センスすごい。

            頭いい。絶対誰か一番最初に考えた人がいて、でも、それが気に入って使い始めた人が沢山

            いて。。。両方ないと広まんない。。。両方同じ価値。

            この下の春間さんの文章には返信付けられない、と書いたけれど、なんか上だった??

            あれれ?

            あ、あと、中の人は中国人ではなくて、○○です。

  10. 春間 則廣 より:

      HARUMA  N o !

       「 人 」 は  「 平等 」
           = イーコール = 等しい = 能力には差はない
      能力 に 差がないから、 人は あの人は頭が良い  と
           評価できる   ( 評価できる 能力を持っている )
      ただし、 その場合、 頭の良さ という分野での、
           ある種の基準において、  高低 を 判断している      
           そして、その分野 の   “ その外から 眺めて ”
         ” 低さ ” を 量っている = “ 高さ ”を 量っている
       ( 量る時には、 便宜上 !  「 中道 」 を 用いる )

        ちょうどうまい具合 に、自分はいつも 量る基準を持っている
     ( その基準 を 外から眺めること を「 成就 」と 呼ぶ )
         ・・・・・・・・・・・・・  「 成就 」 すると分かる

      自分の能力 は  自分では、( 通常 ) 量ることが出来ない
     ( 自分の 外 に 立って、 外から眺めることが出来ないから )

         インド では 、 外 は かなり暑い ( 木陰がよい )
      ( 中国では、 山は 寒い  日本では 夏以外は 心地よい )
         重衣 で済む インド     応変させる 日本

      裸になれば、人の差は 余り感じない ( 銭湯に入れば分かる )

            使い道のない 肉体美 を 誇る 、、、、
         ( 誇る という 使い道がある ・ 好む者もいる )         

         (  使い道のない  頭  を 誇る 、、、、  )

     ( 幸い か 煩い かは、あなたの“量”見  ではある が 、、 )
       “ 幸いにして ” わたしは   見栄え は よい
          外見は 幸いする が 内容は 煩いする
        ( 煩い事 を 執拗に  追求している 、、、、 )

              「 平等 」   である
               ということ   は
             “ 難儀なこと ” である