カップは銀色

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写真に撮るものがなくなってきたな、と思ったあなた、あたりです。年季の入ったこのカップは冷めにくいというのが売りでしたが、今では、しっかり冷めます。ふつうのカップと変わりません。いつも冷たく冷えたコーヒーを、「ひえちゃった」と思いながら飲んでます。

わたしは、ぎんたさまに、こういう質問をだしました。

どうして龍樹はブッダ(悟りを開いた者)にならなかったんでしょう。
何で、菩薩のままブッダの世界の住人をやっているんでしょう。

ぎんたさまのコメントの答えは

な、んで?、、、、、えーーー考えたことも無かったーーーーー!!
なんで、、そうしたか、、、?動機?気持ち?うーーーーーん、
本人と答え合わせ出来ないことなんか、考えても無駄な気がしないでも
ないけど、、確かに、、なんでだろう~?

「悟りを開いた者」しかも、一番最初に、、が仏陀だけど、それと
同じことは「出来ない」からかな、すでに仏陀がいる以上。

龍樹の答えは分かると思ってるわたし。ぎんたさまの答えは、あたってるような気がする。「同じことは『出来ない』から」って、良い答えだなあ。どうして、そう思うか説明するよ。

ブッダは、『スッタニパータ』という経典の中で、こう言ってる。

932. 沙門たちや、また、あれこれ言う人々の多くのことばを聞いて、不機嫌になるとしても、粗暴なことばで返答してはなりません。なぜなら、(聖なる)人々というのは(誰とも)敵対することはないからです。

933. この法を知って、比丘は常に考察しながら気づきをもって学習していきなさい。(煩悩の)消尽を「寂静である」と知って、ゴータマの教えの中で怠らないようにしなさい。

934. かれは、実に打ち勝った者であって、(他によって)打ち勝たれた者なのではありません。(他から)伝え聞いたのではなく、みずから直証した法を見たのです。それ故に、かの尊師の教えにおいて、怠ることなく、常に礼拝しつつ、したがい学んでいきなさい」と、尊師は語りました。

ブッダは、他の人と敵対するなと言ってるね。けんかはいけませんということだよね。ここを肝に銘じたら、煩悩を消すようにして行きなさい、と次の偈で述べているね。そして、他から伝え聞いたものをありがたがるのではなく、自分で納得して証明してから進みなさい、と仏ゴータマは述べているよね。ゴータマの教えとは、自分で納得してから進めという教えなんだね。ゴータマは、権威だからと言ってそのまま無批判に従ってはいけない、って言ってる。自分のことばも含めて!

こう言われて、ブッダ大好きの龍樹は、こう答えた。『中論頌』の終わりに、ゴータマの教えを受けとめたことが書いてあります。

一切の見解を捨て去るために、憐れみをもって、正しい法を説いたゴータマにわたしは帰命する。(27.30)

龍樹の書いた『中論頌』という本の終わりに、「ゴータマの教えに帰命する」ってあるのは、ブッダちゃまにずっと従って行きます、ってことだよね。「わたしも、ブッダになるぞ」ではなくて、ブッダの教えが行きわたる世界の住人として生きて来ます、って宣言してるように、見えるんだよ。

ここを読んで、龍樹は、「おれがおれが」という気持ちが抜けて、無我の心も会得したんだなあ、って思うのよ。

ブッダの教えを受けた者たちは、おおよそ、みんな、こんな感じ。智慧の仏弟子サーリプッタも、この龍樹も。他には、観音菩薩も。

阿弥陀仏は、阿弥陀という仏になったけど、ブッダ(仏)になったら、お釈迦さま(釈迦牟尼仏)とは、いっしょの世界にはいられない。阿弥陀仏は、西方浄土極楽世界に住んでいて、ゴータマ仏(お釈迦さま)は、娑婆世界に住んでいる。だから、輪廻する人々は、極楽に往生して阿弥陀仏の元で修行して、それから、この娑婆世界に戻って来て生きとし生けるものたちを救おうとしている。極楽世界を作る、ということに、法蔵菩薩(後の阿弥陀仏)は一生懸命がんばった。なぜなら、娑婆世界は畜生道・餓鬼道・地獄の3つがあるけど、極楽にはその悪い境涯はないんだ。だから、みんな、いつかは悟れるようになっているんだ。

いろんな考え方があるんだね。

コメント

  1. 春間 則廣 より:

    > 娑婆世界は畜生道・餓鬼道・地獄の3つがあるけど、極楽にはその悪い境涯はないんだ。だから、みんな、いつかは悟れるようになっているんだ。

       どうして、 誰でも( みんな ) いつかは  悟れるのかな ?

           林檎 が ある
      しかし、誰でも それを 食べられるわけではない 、、、、

          アフリカ の ある地域(複数) では、 それが望めない

     南アフリカ(協和国) なら、 食べられるだろうか ?
     たとえ、店にそれが 並んでいようと、 眺めることしか できない人もあり
      眺めることも出来ない人もあり、  眺めることさえ知らない人もいる 

              見ても、 欲しがらない人もいる

    > いろんな考え方があるんだね。

        色 んな 考え方はない

        色色 あるという  「 識 」 の世界 

          「 識 」  と  「 色 」   とに 囚われる アシキ 心

         囚われること は 決して  「 悪 」 ではなく

                 そこには 「 裏面 」 がある

       けれども、 「 裏面 」 の 読み方 には、 ふたつある
            うらめん と うらおもて

      “ うらめん ” は ひっくり返すと “ おもて ” であるから
          “ 常 ” に そこには、 “ おもて ” しかない
      (  と言っても 、
         ひっくり返って これを読んでも、 裏 は 裏 でしかない ) 
     
          ( 裏を読みなさい  そうすれば、 表のことが分かる )
               うらおもて  という 読み方のことが分かる

         色 んな 考えかた   は  ナイ !

            ************
      
       「  衆生 本来 仏  なり  」  

      多くの人( ほとんど 人 ) は 
             仏 と なる形  に ある( 成りつつある )

     形は 毎日  作りかえられて行く から、 誤った 形( 部分!)は、
       本来の形  に 作りかえられて行く
     
        その本来の形 というモノは  ナイ !
       自分の 都合  という 作り上げられた “ 都合 ” に従うと、
       自他 という ことが起き、
         ( 他という 人の都合 に  たがう・差ふ・違う )
       他人 の都合 と 擦り合わせられにくくなる。

         不都合が起き 、 都合よく それに 合わせる( 併せる )
                  ( 何らかの ワダカマリ を 作り、 積んでいく )

        「 世間 」 では、  それが 要求され、 それを、 学び
            次に、      それを させようとする

       その積み重ね が ( 積まれ て 背負い続け )
     「 世間 」 ( 自分という 者  が 住んでいる世界 ) となる

    >  みんな、いつかは悟れるようになっているんだ。

        いつか って  いつ ?

        五日 ではなく、 ナンジ と 訊かれる 時間の世界

         ナンジ ハ ソコデ ナニヲナシテ  ナヤムノカ 

        「 今 」 において、 悩みを離れたい 

            ラリッテ いれば  “いい” のですか ?

        (  わたしは  “いい” こと  ばかりではないと 断定する )

               色んな考え方  は  ない

    • ぎんた より:

      えーー!!?取り敢えず思いついたから、「同じことは出来ないから」って書いたけど、納得はいってなくて、、、だって、うーーーん、、なんか無味乾燥というか、わくっとしないというか、目から鱗バサーって落ちないし、、。
      自分で「自分の想定外」って思いつけないんだな、と。
      誰か(←ほとけ)がぎんたの思いつかない答えを言ってくれて、それが面白かったらそっちを採用させて貰うんだけど。。。

      仏陀が好きだから、だと、まず「好き」のニュアンスは人それぞれだし、
      「好き」だと帰依したいのか、究極的にまねっこしたくなるのか、「実は自分
      仏陀の生まれ変わりなんだぜ」と思って内心ニマニマしながら生きるのか等
      選択肢が沢山出来るから(←ほとけの数だけ)、とりあえず、「物理的に無理
      じゃん?」てとこを書いといたので。日本人て多分「物語」とか「おもしろ」
      が好きでしょ、だからこれじゃだめなんよ。。。

      あ、あの、前に接心で「なにかひとつ、これはというものに取り組みなさい」
      と頂いて、咄嗟に心に「真如教徒でない人に喜んで貰えるように取り組みます」
      と思ったのです。その頃ネットを覗き始まって(仏教関係。猫は前から見てた)
      これはそーとーヒンシュク買っちゃってるぞ、と思い、この怒りを静めてもらう
      には、謝罪、賠償、教団潰す、納得のいく説明、そして「笑い」が不可欠と判断しまして。思わず笑ってしまえば、怒りの感情をいくらかはガス抜きできるかと思って。でも、猫って、、「笑い」得意でないの。表情筋も発達してないし。
      それでも、どこまでも真剣にやってるとちょっと「おかしみ」がでるかもな、と思ってやってて、ショーシャンクさんが、ブログで「爆笑した」って言ってくれたの本当に嬉しかった。それは目指していたことなので。ぎんたの真意伝わったのかな?って。

      • mani(管理人エム) より:

        > でも、猫って、、「笑い」得意でないの。表情筋も発達してないし。

        うん!「笑い」とるのは容易でナイス。うちの猫に笑いかけても、じっとこちらをまじめに見るだけだし。
        ショーシャンクさまの笑いをとるとは、相当の実力あり!と見ましただ。

        ぎんたさまの中には一切智の目(芽)があるなあ、って思う。。いつも、そうおもうんよ。

        一切智のある人は、誰からも笑われる。。おシャカに成ることを畏れない。

        ブッダって、大まじめなんだけど、どこか笑える。笑われても気にしない。
        だって、ぼく、一切智者なんだもん、って言って、笑ってる。

        • ぎんた より:

          >だって、ぼく、一切智者なんだもん、って言って、笑ってる。

          ええええーーーーー、こんなこと言ったら、現代の日本ではかなーーり

          ヒンシュク買うと思います!「こんなこと言ってるヤツほど怪しい!!

          詐欺師かバカ(どちらもほとけ)に違いない」となりますよ。

          • mani より:

            > 「こんなこと言ってるヤツほど怪しい!!
            > 詐欺師かバカ(どちらもほとけ)に違いない」となりますよ。

            ですよねぇ~~。
            みんなお利口さんだから、絶対言わないよね。

            一切智者と言ったのは、ブッダと龍樹なんです。

            でもね、だから、わたしはブッダと龍樹を信じてみることにしたんです。

            かれらだけが、そう言っているですもん。もしかするともしかするかも。。かも。。

    • mani(管理人エム) より:

      > 色んな考え方  は  ない

      わたしが「いろんな考え方があるんだね」と書かなかったら、否定はできなかった。。というところ、ほとんどいつも機(気)になるところ。

      たぶん、そこだと思う。その順序とその内容はいいのだけれど、隔靴掻痒感がある。

      「いろんな考え方があるんだね」の中には「色んな考え方  は  ない」も入るんだから。

  2. 慧樹 より:

    …………………

    「いろんな考え方があるんだね」=「全承認」
    …………………

    矛盾や曖昧さが許されない西洋の命題論理学はゲーテルによって、
    「証明可能でない命題が存在する」ということで、論理学の限界
    を突き付けられ、新たな論理学の道が開かれたとか……。

    といっても、これらは、大学院の論理学をマスターしないと分か
    らないような、特別な人々の論理学。頭の悪い私には取り付く島
    がありません。

    ニヤーヤ論理学も、論理を追及しつつ「ベーダ聖典の権威を認める」
    という「曖昧さ」があるから、私のような頭の悪い者も許されるの
    ではないのでしょうか。

    だから教育もないアホな私は、マントラを唱えて生きています。
    「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も誰も出来るマントラ。

    インド仏教も、高貴な人々に難解は論理学や哲学が重要視され、
    お金持ちたちが荘厳な仏殿は作り、大多数の貧しい貧乏人たち
    には付いて行けないものとなって、民衆が仏教から離れて行った。

    そこで大多数の民衆が頼りにしたのが、バラモン教の神々で、
    インド仏教は、ヒンズー教に席巻されて滅亡して行く。

    日本もそんな傾向にありますね。
    高尚に論理化される仏教は滅ぶと思います。
    だから民衆に受ける新興宗教が台頭する。

    「いろんな考え方があるんだね。」
    と認めれば、「全承認」ですね。

    好き嫌いの多い私には「届かぬ理想」ですが、
    理想と現実を混同させずに、届かぬ理想を目指して、
    「いろいろ考えを学び続けて行きたい」と思います。

    無量法門誓願学――哲学も中国思想もセム的一神教もアミニズムも……。

  3. 春間 則廣 より:

         論理の迷路 の   中で   彷徨う     “ わたし ”
       ( 論理の中 で )  彷徨い を なくした   “ あなた ”

         たまご は いつも  二話 トリ  の 機 となる 

       “ 機 ” とは 見出す者 に おきている  「 縁起 」 

    >  わたしが  “ ・ ・ ・ ”  と書かなかったら、否定は
     できなかった。。 というところ、  ほとんどいつも 機(気)になる
    ところ。
     
       否定 が 気になり      肯定 の キ となるのか
       肯定 を 気にしないから   否定 の 機 と なるの  
       か 、、、、

           ここが  カユイ  ところ

    > たぶん、そこだと思う。
    > その順序とその内容はいいのだけれど、隔靴掻痒感がある。

    > 「いろんな考え方があるんだね」の中には
      「色んな考え方  は  ない」 も入るんだから。

    「 色んな考え方  は  ない 」   の  中には
    「 いろんな考え方があるんだね 」   “ 〇 ○ ○ ” が

        入っているけれど

        ( “ 卍つなぎ ” のように 考えるとき )
            たまご が   二把 トリ  を 生む

    • mani より:

       >     ( “ 卍つなぎ ” のように 考えるとき )
       >        たまご が   二把 トリ  を 生む

      そうなんです。機は気を生ずる。気は機を生ずる。どちらかの立場に偏らないことが大切。中道って、そういうことか。。独り言です。

  4. 春間 則廣 より:

     * 

      ある  の 中には  ない   も 入る
      ない  の 中には  ある   も 入る

       こ の  フタツ  に   達する  一つ 

       一つ として 達しない ものは ない
                達する  「 処 」  は
                      ナイ トコロ 

      “ある” ところ に   彷徨う  
      “ない” のに 、  “ ないもの ” を 得た 者 

       何故彷徨うか を 捨て去る  者
                捨てる “ モノ ”  など  ナイ !

        ある ! 者 の中  ニハ  ない ! 者 も入る

       幾個 の 達する  「 処 」 

      行く個 の 達したい 「 処 」 

       行くところ 行くところ 達せぬ ところ に 達する

  5. カエル より:

    龍樹はサークル名じゃないですかね
    小説あり4コマあり短編ありの同好の士の作品集

    サークルの理論的指導者が実質的な龍樹なのでしょうが
    伝記等は釈尊に比べたら時代が新しいのにリアリティがないので
    そこいらもサークルの設定ではないかと

    有部が全盛の時代に気鋭の理論家たちの薄い本が
    すごい人気が出たので薄い本が薄い本を呼ぶ人気シリーズになって
    後世に断片的に残ったのでわ

    • ぎんた より:

      わーーー!!なんか楽しいです!!みんなで盛り上がっている感じする!!

    • mani より:

      > 龍樹はサークル名じゃないですかね

      ここで言うべきだったか「いろんな考え方があるんだね」って。

      このサークルのコンセプトは、「龍(ナーガ)をめざす者たちの集まり(=樹木の下)」ってところかな。

      > すごい人気が出たので薄い本が薄い本を呼ぶ人気シリーズ

      後代、薄すぎて意味がわからなくなった、とか!
      アルかもなあ。

      信じられないものを信じてみるコツは?

      一度地獄に落ちてみることだっ!ってのはどうかな。

      • カエル より:

        政治制度の議論に似ている
        ニ院制の皮肉

        参議院が衆議院と一致なら無用
        参議院が衆議院と不一致なら有害

        龍樹と釈尊が一致なら無用
        龍樹と釈尊が不一致なら有害

        龍樹造がパーリ仏典よりも平易ならまだしも難解であるならばマニカナ先生に任せてさようなら~ヾ( ゚д゚)ノ゛

        皆様、良いお年を

        • mani〈管理人エム) より:

          > 龍樹と釈尊が一致なら無用
          > 龍樹と釈尊が不一致なら有害

          で、問題なのは、一致してるか一致してないのか、わからない、ってことですよね。

          議論は完璧なんだけど、結論がでないこと、ここが問題だっつうの。。

          • mani〈管理人エム) より:

            年が明けてました。。みなさま、明けましておめでとう。
            今年もよろしくお願いします。

  6. 春間 則廣 より:

    > 龍樹と釈尊が一致なら無用

      何をもって 、一致とするか が( あなたと )一致していない

       あなたと、シッダッタ とは  平等 = 変わるところがない
             あなた  とは  不用か    ?

    > 龍樹造がパーリ仏典よりも平易ならまだしも難解であるならばマニカナ先生に任せてさようなら~ヾ( ゚д゚)ノ゛

       パーリ仏典より 平易 ではあるけれど

       もっとも平易 で  誰にでも当てはまること を 過つ人がいる
       その人に対して 、   龍樹 は 平易に 解き明かしている 

       人任せにせず 、 マニカナ先生 の  助けを借りて、
         自分 で 、その過つところ を   正す

      任せるところは、 任せて 任せられないところ を 正す 

       お分かりかな ?
       終わり かな ?
       ( ヒトニ )   負わせるだけ かな ? 
      

    • ぎんた より:

      ??、、コレ読んでから、いいいいいいいいいいーーー生懸命、ずっとずーーーーーーっと、あれこれ考えたけれど、なーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーぁんも出てきませんでした。おせちのねじり梅やりながらもずーーーーーーーーっと。(しかも、ぎんたのが家族よりへたくそ、中の人が猫だから。家族は包丁得意で、料理も「切りモノ」大好きです。彫刻刀が子供の頃の遊び道具だったんですって!!!!!)

      でもね、(あの危険な団体の方、見てるかな?)彫刻刀に慣れ親しんでる家族
      ですが、「篆刻」て言葉は知らなかったよ。(そういう文化圏の人間)ぎんた
      だってあの危険な団体に行ってなければ篆刻って知らなかったと思うよ。

      話が逸れましたが、1月4日に北鎌倉でちょっと取っ掛かりになりそうなネタに
      遭遇しまして。北鎌倉古民家ミュージアムの個展です。「異界への扉」
      よねやまりゅう という作家さんです。

      • mani より:

        > よねやまりゅう という作家さんです。

        しばし見続けてました。遠いチベットがあるなあ。
        密教と輪廻とこの国(日本)の人。。。

  7. カエル より:

    おこんばんわ

    「ここは今から倫理です。」
    http://grandjump.shueisha.co.jp/manga/rinri.html

    釈尊が「わたしは何がしかの善を求めて出家した」ってのは倫理ですよね

    何かを変えたいのなら自分を変えろって自力救済の初期の釈尊実践哲学ですよね
    Man in the mirror
    https://www.youtube.com/watch?v=qnCogdBxPAs

    メロディは刺さらないが歌詞は刺さる

    • ぎんた より:

      「ここは今から倫理です。」はドラマになってましたね、山田裕貴で。
      漫画やドラマで倫理に明るい若い世代が増えて、世の中変わって行くかもしれない、楽しみ。

      あ、カエルさんに質問なんですけれど、「チャクラ」が開くとどうなるのですか?なにか、データ?作品ありますか?

    • ぎんた より:

      場所はおでこです。古民家ミュージアムで羽の生えた真っ赤な猫(真顔)のおでこに第3の目がありました。

      調べてもヨガとか瞑想の情報量が凄くて読む気にならないのです。

      家族は『孔雀王』で止まってます。

  8. mani より:

    カエルさま 明けましておめでとうございます。

    > 何かを変えたいのなら自分を変えろって自力救済の初期の釈尊実践哲学ですよね

    なるほど!そうですね!つまりは、
    ‘釈尊’実践哲学 にしないで、 ‘自力’救済で行けぇ、って言ってるのかな?

    「初期の」ってだけではなくて、「今も変わらぬ実践哲学」です、って感じかな。
    今年もよろしく。

  9. 春間 則廣 より:

    > 何かを変えたいのなら自分を変えろって自力救済の初期の釈尊実践哲学ですよね

    >> なるほど!そうですね!つまりは、
    >> ‘釈尊’実践哲学 にしないで、 ‘自力’救済で行けぇ、って言ってるのかな?

     釈尊実践哲学 とは何かを 解さず、 自力で救済できない人
           に 対しては 、        「 他力 」 ということは 不必要 ?

        「 他力 」 で 行け  って  言っている人もいる  蹴れど
        「 自力 」 で    「 他力 」 を、 選ぶことが出来ると
                      勘違いする人もいる

       選ぶ自分 と、 選ばれる自分、  その両者 を 承認( 自覚 )する自分

       自覚 ノ ミ デ  身を運ぶ  “ ジ ブ ン “
                             時   は 運ぶことなく   運ばれて行く
             運ばれること も なく  「 永遠 」 に 留まって    “ ある ”

    >> 「初期の」ってだけではなくて、「今も変わらぬ実践哲学」です、って感じかな。

        初期 にも 変わることなく  今も変わらぬ ( 先のことを決めている今 )
      ( 過去 に 縁って 決まった  「 今 」 )
        今 考えている のは、  すでに ( あなたが見送った) 過去の自分 
             過去 今 未来       ( そこを分ける 過去のあなた )
       「 今 」 を 捉えれば  未来 は  ナイ ( 過去 が 在る筈 ? )

       “  筈  ”    に 沿って 、  反って 曲がる  放 仏 選

    • mani より:

      >    自覚 ノ ミ デ  身を運ぶ  “ ジ ブ ン “
      >    時   は 運ぶことなく   運ばれて行く

      こうしてみると、「自我」と「時」は相いれないようだ。
      「自我」を認めると永遠につながる。
      「時」を認めると自己はない。

      諸行は無常なら、諸法は無我にしかならないか。。なるほど。
      そして、涅槃は寂静 ということになるかな。。なるほど、とはいかない、むずいなあ。

  10. 春間 則廣 より:

    > > 自覚 ノ ミ デ
           身を運ぶ“  ジ  ブ ン  “

    > >          “ジ”・ 時 は 運ぶことなく運ばれて行く

               “ブン”・ 運ばれること も なく
                    「永遠」に留まるしかない“ある”

                「分」= 分ける という 構造・意味

    > こうしてみると、「自我」と「時」は相いれないようだ。

         「 自我 」 が あるとき  「 時 」  が 生まれる

    > 「自我」を認めると永遠につながる。

         「 永遠 」  に   存在するしかない 「 自我 」 
         「認める」 と 言う   「 自我 」 

    > 「時」を認めると自己はない。

        時を 認めざるをえない 「 自我 」 ・ 「 自己 」 

    • ぎんた より:

      あ、のさ、、、駄目元で言ってみるんだけど、こんな感じの文章なら内容分るんだけれど、、という

      いい例があったので、是非読んでほしいです。内田樹の研究室の12/27のところ。内容も、文章について

      なのです。そうしたら頭に霞がかからないで読めると思います。。。もしかして、ぎんたの認識外の領域

      に向かって話してるとか?

      • mani(管理人エム) より:

        ぎんたさま 春間さまはぎんたさまにはなしてると思うなあ。

        > 認識外のことを、 認識できる人に対して、話しています。

        って書いているから。
        「近く(知覚)」と「遠く(TALK)」は、音と意味と流れが大事だって言ってるかも。

        遠くの景色は過ぎて行くけど、船の縁(近く)に目をやれば自分が動いているのが分かる、って道元が言ってる。
        遠くを見たら必ず近くも見るべし、って春間さまは言ってるかもしれない。
        そして、それに気付よ、っていってるかもしれない。

  11. 春間 則廣 より:

    > もしかして、ぎんたの認識外の領域に向かって話してるとか?

      認識外のことを、 認識できる人に対して、話しています。
      尤も、認識外のこと は   近く(認識知覚)には分からないけれど、
          トオク(TALK) ある   ということは、誰にでも分る
          誰もが、 分かるけれど 、
             TALKにする  ということは 、 遠く に ある

        遠く望んでみること は
       ( 日常に 於いて ) 望むこと と  食い違うことが多い
        近くを見てばかりいると、 近視眼的展望バカリ(量り)になる
         いま実用とすることに縛られた、展望 しか 開かれない

       遠く  空海のこと や 道元・親鸞 のことを 、
                チカクニヒキヨセレバ
          細かいところまで 手に取るように解る

     引き寄せたくない人 は
     引き寄せる“ 手 ”を 見つけようとしない(から、見つけられない)

      自分の分かること  なら   聞く必要はない
       ( 分かっていることに 、 当て嵌めるだけの事 だから )
      分からないこと を 分かりたいと 思えば、
          必ず、 分かる道が 出現する
      その道を、 歩もうとする 気運 が 起こせるときに、
          分かる道を歩んでいることに、気付くことが出来る

       口を開いて 上を向いて いても 、  落ちてくるのは
        「 わからない 」 と言ったときの 、 ツバキ 沫 のみ

        それなら、手にツバキをつけて、 眉を整えていた方がよい

    • ぎんた より:

      空海、と聞いて連想するのは、あの危険な団体で、代表が(継主といいます)「教主様は弘法大師を経由
      して仏陀のところへ行ったとおもいます」(ちょっと文章違うけど)と言ってて。(猫敬語苦手なの、仰っててとか字数が増えると頭の中で考えていたことがどんどん流れていって捕まえられなくなる=忘れるの。猫だから)すると、ほとけ目指すだかってことは、「教主様をお手本に」「感謝する」とかって意識でいると、自分とほとけとふたりいるってことになっちゃって、どこまでいっても自分は自分なの。ほとけになれないの。だから、教主は祈らずに、教主のまねっこすると、誰も経由しないでほとけのとこに行くしか無くて。(あ、弘法大師のこととか仏典しらないから)ぎんたが取り敢えず直接ほとけの前に行くとね?こんな言葉しか出ないの。

      「ふーーーん、元王族?(ムカツク)俺庶民~~~~!!!!!!!オマエなに?4月8日生まれ??
      ふーーーーーん、俺は早生まれで体小っちゃくて地味で幼稚で空気読めなくてすれ違いざまに「ブス!」て言われたこともある人間なんだよ!自分の心だけ整えたって、自分以外のやつが荒れてたら攻撃されちゃうんだよ?そしたら殴られたり死んだりすればいい??自分の身体・人生に拘りすぎだぁ???
      はーーーーーーーーーーーーーーーー?????コロチュ(←さいごはウサコッツになってる)」

      とにかく、まぁまぁ大勢の人が「今現在あなたとわたしとお釈迦様の価値は同じだ」を前提に
      真の「対話」が出来る世の中が来ないと、もう深海の深ーーーーーいところの、人間に知られてない
      生き物をずっとやり続けるしかないの。でもぎんたんと約束しちゃったから、次はぎんたが人間で私が飼い猫なんだけれど、これ以上ヤバい世の中になると、ぎんたと出逢う前にぎんた自殺しちゃう。

      • ぎんた より:

        あ、そんで親鸞は「こころの時代~宗教・人生」で観てすっごい良かった!千人殺せと言われても、業が無い人は一人として殺せないとからへん。あと、「一向に極楽に往生したいという気持ちが湧いてこない」だかのやりとりのとこ。繰り返し何度も観てるけど、話すとこんな程度にしか思い出せない。脳のキャパが狭すぎて。で、道元は、、、ちょっとデータない。もはや面倒くさくてネット調べもしない。でも、申し訳ないとか思わない。私に知られてなくても道元ほとけだし。

  12. 春間 則廣 より:

    > あ、そんで親鸞は「こころの時代~宗教・人生」で観てすっごい良かった!

     良い ( すっごいよい の 少し悪い( 悪いとこ見つけられない )
             少し良い の 、   多く悪い ところ 
        すこしだけ悪い の中の 、 あとは すっごく良い
     よいと思うけれど その “善い” こと は 少しも実行できない
     少しはできるけれど( その少しは 自分の最大限 できること )
       多くしたいと   “ 口では言えるけれど ”
             多くする気にはならない( 多く は、 しない )

         良いことをすると 良い 、 しないと 悪い
         してもいないこと に対して “ 口だけで ” 評価する

    > 千人殺せと言われても、業が無い人は一人として殺せないとからへん。あと、「一向に極楽に往生したいという気持ちが湧いてこない」だかのやりとりのとこ。繰り返し何度も観てるけど、話すとこんな程度にしか思い出せない。

      話せないことは 人には 伝わらない( 聞こえない・読めない )
      思い出せること  だけ  “ 読んだ ”  に 過ぎない 
     ( 読んで知ったこと  は 行ないに移すことはできない )
     読まずとも、 行っていること を 読んだ事 に、当て嵌める
                  と 
      同じである と 知るとき  ・  読んだ事は 違っている 
                  と 
            認識することが敵う

      人は、 していることを基準として ( それ以下のことだけ ) 
              分かる
      ( していること 以上のこと は 理解不能・することはない )

        理解したこと                           を   しているとき に
        書かれていることと   符合する

    > 脳のキャパが狭すぎて。

       道元は 人は  「 平等 」  である  ということから
                一粍( 千分の一 ) も 踏み外さない
       どんなに 小さい穴  にでも  人は落ち込んでしまう
                     ということを   知っているから
       穴 を塞ぐか 、 其れより 大きい穴 を 掘って、
                 その中に 端坐する ということを教える

    > で、道元は、、、ちょっとデータない。もはや面倒くさくてネット調べもしない。でも、申し訳ないとか思わない。私に知られてなくても道元ほとけだし。

         これを読むのも  面倒くさい  あなた    に
             あえて 面倒くさい文 を 綴って  投げつける
                    けれど 、、、、

      ( わたしは 微塵も 人生に対して 面倒という気を起こさない )

       あなたは それを ( 自分の都合で ) 受けても 踏みつける

       あなたが 読むか読まぬか で
            わたしの価値  が  ( あなたに )量られる

              読み取る価値もない 面倒くさい 文章

  13. ぎんた より:

    え?文章読まれなくても「今現在あなたとわたしとお釈迦様の価値は同じだ」ですから。←便利でしょ、コレ。いや、読んではいるけど意味がわからない。
    それで、ですね。ぎんたは仏教の先人と同じことはできないの。猫だから。ですから、

    ①悟らない。悟りを目指さない。

    ②人格者だと認識されない(一目置かれない・名前も知られない)

    ③人より理解が遅い。最期まで理解出来ない            これだけやってる。

    山本太郎が被災地で炊き出しのカレー食べたって。Xで。ぎ「、、、これさ、思わず食べちゃいました!
    ゴメンナサイ!!!!!!!!!ボランティアの食事は持参って知らなかったです!勉強不足でした!!(または、)知ってましたが頂いちゃったので思わず反射的に食べてしまいました!!バカでしたっっっっ!!!!!!!!!!!!これからもご指摘よろしくお願い申し上げます!!!!!!!!!!!!」って動画で言えばいいのにね、そしたらあいつこーゆーやつだよなーー(ざまぁ)とはなっても二日も三日も叩けないのにねーー(それ以上叩くと今度はそっちが病的に見える)それができたら見てて面白いのに」
    家「そんなこと出来るわけないだろ」
    ぎ「チェーーーーー、ところでさ、ぎんたは何をやるべきだと思う?♪」
    家「おめーは何もするな、迷惑だから。回りの仕事を増やすだけだ」
    ぎ「、、、、、。(しまった、色々書いちゃってるよ、、、あ、でも京極夏彦に操られてるだけだった、良かった)」

    あとさ、親鸞も道元も百パー正しいよ。ほとけだもん。ほとけひとりひとり、正しい仏教は違ってて、
    時代時代に「自分」が納得できる(=救われた)と思えるものをやってたんでしょ?
    ぎんただって、「私な仏教」だし。みんないろいろカスタマイズしてどれが自分の心を救うか試しながら
    やればいいんだよ。で私の今のはこんな感じなんだ~って見せ合えば。「推し」でもいいんじゃない?
    「推す」ことで救われるとか善いシステムと思うよ。すごいよねぇ。

    春間さんの文章を一番切実に読み込めているのは春間さんなので、全部自分に返っていってると思います。ぎんたのばやいは、(??支離滅裂かしらどうかしらう~~~~~ん、、、、自信ないけど、、、、
    まぁ、どうせ京極先生に操られているだけだしぃ)位な感じなので、そんなに自分に返っていかないよ?

    最近「呪術廻戦」て言葉が気にはなるけど、流行ってるから。でも、単語だけ採取して特に調べたりしない。本もタイトルだけ。「訂正する力」とか。あ、表紙に猫ちゃんが!!ヨシタケシンスケだ!くらい。

    すまぬ~~~

  14. 春間 則廣 より:

    > え?文章読まれなくても「今現在あなたとわたしとお釈迦様の価値は同じだ」ですから。

       同じ と 書いてあったら、 同じですか ?

    > ←便利でしょ、コレ。

      それで生きて来て、それで生きて行ける  者には
      それを 便利とする 理由 が 生まれる  必然がある

       これからも、便利性で 物事を判断していける
                  のであれば
         それは、  「 そう 」  としか 言うことはできない

        急がば 廻れ
       ( 便利性 とは ヒトツ の 評価基準では ある )

    > いや、読んではいるけど意味がわからない。

        意味を分かろうとして 読まぬから、
        分かる道に入ることが出来ない
           君は せっかちである
        人生は 短いようで、 退屈するほど 長い

             冬至は過ぎても まだまだ 夜は長い

    > それで、ですね。ぎんたは仏教の先人と同じことはできないの。猫だから。ですから、

        してみてから、 出来ない と  言ってね
        見様見真似 でもいいから してみて 出来ない と 言って欲しい

       お釈迦様 も ナザレのイエス も 人は 「 平等 」  と 教えている
                       能力 は 一緒 
                 ではあるけれど 、 その貴重さを知る人には
                 使いかたに、    その人なりの生きざまがある

       寒・暖 達は、 出来る出来ない という 槍もしないこと に対して、
         突き刺すような評価 を しはしない
             したくないことには、 黙って いる
                ニャン とも いわない ニャー という

    ② 悟らない。悟りを目指さない。
    ②人格者だと認識されない(一目置かれない・名前も知られない)

        賢治と一緒 だ  教科書に書いてあるどおり     

    ③ 人より理解が遅い。最期まで理解出来ない            これだけやってる。

      それだけ 理解できるのに、
        何故 人として  “ あったりまえ ” のこと を 
                     知ろうとしないのかな ?

      “  自分一人だけ納得しても、 幸せにはなれない構造  ”
                    ( 心は 安らぐことが出来ない )

  15. 春間 則廣 より:

        ねこ に  とう (   とう  は まちがい   )

        ねこ に  ひき         

      かたほう に   とう ( ひきつける ほう に とう )
                                   
        ほう を  とう (   ほん とう   を とう )

    • mani より:

      猫 二頭        (頭はまちがい )    ( 猫に 問う )
      猫 二匹

      片方に問う       ( 引きつける方に 問う )
      法を問う        ( 本当を 問う )

      サムは答える  にゃんとな
      ダンは答える  にゃーーだよ!!

  16. 春間 則廣 より:

    *

      ねこ

       ここのねこ さんしょう

             とどいたメール を ひらく

    ネコは世界をどのように捉えているのか
    暗視ゴーグルのような視力から、人間の14倍という嗅覚まで、ネコの感覚の秘密を知れば、ネコの気持ちをよりよく理解できるかもしれません。

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    https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/24/010500012/?P=2

             

      ぴりりとからいかどうかをとうどうとうかはねこしだい