今回は自前の写真はなしです。(アイキャッチ画像あり。中奥がパンサラッサ、手前はヴァンドギャルド。他にもいた。一番奥のロードノース。パンサラッサとロードノースが同着で一位だそうです。ヴァンドギャルドは3位だって。ドバイターフで2022.3.26に行われたのだそう。知らなかったよ、カエルさまに教えてもらうまで。ロイター通信より)
「止まれ、沙門よ」「止まれ、沙門よ」
「止まっているのはわたしだよ、アングリマーラよ、だから、おまえが、止まりなさい」
「沙門よ、歩いているのに、おまえは、『止まっている』という。
そして、わたしを、止まっているのに、『止まっていない』という。
おまえに、この意味を尋ねよう、沙門よ、
どうして、止まったのがおまえで、わたしは、止まっていないのであるか?」
「止まったのは、わたしだ、アングリマーラよ、
常にあらゆる生き物に刀杖を置いてしまった。
だが、おまえは、命あるものたちに節制がない。
だから、止まったのはわたしで、おまえは、止まっていないのだよ」
がび~ん!となったアングリマーラ。。パンサラッサ(え?)に言いました。
「刀杖を捨てます、弟子にしてください」
止まっているのはわたしだよ、止まっていないのはおまえだよ、おまえの方こそ止まりなさい。
駆けるパンサラッサはサウジアラビア(またはドバイ)を駆け抜ける。刀杖を置いてない国がある。パンサラッサは駆けることによって止まっていることを示している。
「おまえが人質を取ったんじゃないか、はじめたのはおまえだ」
この世において、実に、恨みによって、諸々の恨みが止むことはない。
どんなときにも、恨みのないことによって止むのである。
これは、永遠の真理(ダンマ)である。(『ダンマパダ』1.5)
まず、おまえが止まりなさい、そうすると、徐々に止まっていく。。といっているように聞こえる。ドバイを駆け抜けたパンサラッサ。先行逃げ切りの妙技を披露してみせた。
その心は?
はじめていないのだから、おわりもない、ましてや、中間もあるはずがない。
止まっているのだよ、
これが安らぎ、空(くう)である。空の中には何もない。
一頭ゴールを駆け抜ける。その姿は止まっている。煩悩のある者たちは、はじめを作り終わりを作り中を作る。有為の世界を生きている。だけど、パンサラッサは、無為の奥山けふ超える…
無為は、涅槃です。
コメント
パンサラッサ「止まっているのはわたしだよ、イクイノックスよ、だから、おまえが、止まりな・・・」
イクイノックス「お先にぃぃぃぃー!」
2022年 天皇賞(秋)(GⅠ)
https://www.youtube.com/watch?v=K5MPVfVpI7A
ま、競馬は比喩には使えても、競馬は競馬だから
スピードあんどパワーの世界で限界はありますね
仏道にきわまりはなさそう
釈尊は今も歩みを止めてなさそうで怖い
いやいや勝負の世界も不思議を示しますね。
ドバイのレースでは、ロードノースという馬と同着で1位だったです。3頭がいたのね。写真で見たとき、2頭だと思った。ヴァンドギャルドという馬とパンサラッサ。
だけど、青い帽子の奥に赤い帽子があるぞ、それに馬の足がなんかいっぱいある!!
写真判定が長くかかったのだそうです。これは、縁起(論理)だね。
ゴールの線のところでは2頭は重なって1頭になってるんですね、きっと。
止まってる。。煩悩の世界だけは動いているようだけど。
*
> この世において、実に、恨みによって、諸々の恨みが止むことはない。
どんなときにも、恨みのないことによって止むのである。
これは、永遠の真理(ダンマ)である。(『ダンマパダ』1.5)
これを 如来の法 と 名づく ( 此名如来法 ) < 法句経 五 >
> 「おまえが人質を取ったんじゃないか、はじめたのはおまえだ」
此 によりて、争いが 起きているのではなく
彼 によりて 争いは 起きる
争いは 恨みによって起きるのではなく
自らの “ モノ ” という “ 囲い ” に 起きる
自らを 破り捨て、 囲いを 解き放つことにより
“ 死の囲い ” にある 自らを知る
「 務自省身 」 自らの身を省みることに 務むれば
「 永滅無患 」 患うことは永久に滅す < 法句経 六 >
始めることにより 終わりのないところ に ある と知る
行住坐臥すべて禅
「 心身脱落 」 「 脱落即現成 」
< 正法眼蔵 42 説心説性 >
「 説心説性底誰 」 → 「 死中得活 」
佛道祖道には かくのごとくの説心説性ありて 參究せらるるなり
又且のときは 十分の死を死して 得活の活計 を現成するなり
唐代より今日にいたるまで 説心説性の佛道なることをあきらめず
教行證の説心説性にくらくて 胡説亂道する可憐憫者おほし
身先身後にすくふべし
爲道すらくは 説心説性 は これ七佛師の要機なり
止 のなかに 死 を 見出し “ 十分の死を死して ”
正法・仏道の大本 “ 直得去死十分 ”
「 しかあるに 心を通ぜず 性に達せざる庸流
くらくして心性をしらず 談玄談妙をしらず
佛の道にあるべからざるといふ あるべからざるとをしふ 」
わからぬままに 「 説心説性 」 に まどう
・
……………
アングリマーラよ、自己を整え続けよ「一帆風順」
……………
師匠の妻が振られた腹いせに殺人鬼に貶められたアングリマーラ。
歴史の中ではよくあるパターンだ。誰にでもある復讐心は恐い。
私の敵は私だ。誰しもが業縁に出会えば殺人鬼に化してしまう恐れ
があるから、先ずは、自分の煩悩に目覚める必要があるようだ。
而して、アングリマーラに釈尊は言う。
「アングリマーラよ。 私は、生きとし生ける者に害心を起こす事
なく、心は常に静かに立っている」
読み方は人の境涯によって違うが、私は『ダンマパダ』第十二章
〈自己〉が浮かぶ。
160、自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主で
あろうか? 自己を得難き主を得る。
どうも私たちは、悪人の自覚をして「自己を整える訓練」が必要
なようだ。而してアングリマーラは、釈尊のサンガに入り托鉢修行
をするが、庶民は元殺人鬼への復讐をしようと激しい迫害に会い、
血みどろになってサンガに帰って来る。
血まみれになってサンガに帰るアングリマーラに対して釈尊は言う。
「アングリマーラよ。忍受せよ。そなたが来世において受ける苦しみ
を今受けているのだから。人がもし善業によって、以前になした悪行
をつぐなうなれば、その人は、この世を照らすこと、雲を離れし 月
のごとくであろう」
無差別殺人鬼であったアングリマーラは、忍辱行の内に善行を積んで
悟りを開く。どんな悪人であっても、懺悔発心し仏道に入れば苦から
の解脱ができる。そんなところが業縁の深い私にとって仏教は魅力が
ある。
「心は常に静かに立っている」で想起するのは、「一帆風順」と刻ん
である上海人たちからの贈り物である。
煩悩を制御する真実の自己を立ち上げて、荒波を越えて行け。
「私の敵は私です」という中島みゆきの「ファイト」を旅行先のホテル
で昨晩カラオケで歌った。