息子が退院して、今日で二年が過ぎました。まだ、元気(?)に生きてます!
生存可能なぎりぎりの体重33kgから40kgにまで復活しました。リハビリの先生が立つ練習や歩く練習をしてくれます。車椅子でトイレに行けます。
ただ本人は前の元気だった時の記憶が蘇るらしく、杖をつけば歩けるとか、タクシーで病院に行くとか言い出すので、こちらは慌てます。世間的には寝たきり、ということになってるんですけど。。意識と現実の間に溝があって、ギャップを抱えたままになっています。
不思議な感覚です。過去世の話しを今の世界のこととして話しているような感じ、といったら良いのかな。。
時間は円環か、時間は直線か
過ぎ去る時間を考えると矢のようです。ですが、また、毎日は繰り返し、季節はめぐってくると思うと毎年同じように過ぎていくなあと思うのです。
退院してから二年も経った。でも、毎日が精一杯ではある。
インドの人には時間の観念がないとよく言われるけど、生き物たちの日常は変わりがない。だから、歴史的な事柄はさっぱり年代がわからないけど、その時どう感じたか、何をどう思ったかは手に取るように見えてきたりする。
この日記も、何年に何が起こったのかは語られることなく、日常の暮らしだけが淡々と語られる輪廻日記だね。
コメント
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“ 雪の朝 ” に 考えた 「 輪廻 」 への “ ことば ”
> 過ぎ去る時間を考えると矢のようです。ですが、
また、毎日は繰り返し、季節はめぐってくると思うと
毎年同じように過ぎていくなあと思うのです。
>> そこに 真実 が ある
“そこに” という、 “あなたの 日常” は
( その日常 は )本当にあること だけで 成り立っている
それが、(本当だろうと)虚実であろうと、
あなたは、“ あなたの 日常 ” からの
“ あなたの受け止め方 ” で
毎日あなたの 日常に起きている“ 事象 ” に 対処している
その、 起きている( という ) “事実” を
( あらためて )日常的には 事実とも 認識したりしない
ふと、それを 捉えて、そのことによって 引き起こされる
自分自身の心 の 不具合(違和感) を 知ることもある
しかし、その違和感 は、日常の“事実” に 基づく と
( 当然のこと として )
事実に基づいた、原因の 探求( 考察 ) が 為され、
自己の違和感 の 理由を探る
自己に何等かの不具合・不適切 が あると思うわけである
あなたの 五蘊( 見ているモノ・そこから感じるモノ )
そこには、「 真実 」 はない = 五蘊皆 空 である と
言われようと、今見ているモノ 以外に
( 見え得るものはない )本当のことはない わけである
そのような考え方 に於いては、 「 空 」 という考え方
“それ自体” が、 「 空 」 に過ぎなく、
あなたの考えること が 事実=真実 なのです
あなたの考えること が 真実 ならば、
“ 真実を得ているあなた ” を、
( わたしは ) “ ブッダ ” と呼び、( 同様に )
そのようにして、今の事象 を 捉えて対処している、
街中の人すべて は、 “ブッダ” です
であれば、 わたしは、 同様にして、あなた方の日常から
「 真理 」 = 事実 = 真実 を 得ている
ゆえに 、 わたしは ブッダ だということは 真実 です
そのわたし が 動かざるモノ に対して、
動かない ということ を 考察します
動かす(動かされる)までは、動かざるモノ は 決して動きません
動かない現実 は、 捉えた 瞬間 に のみ 存在し
( 次の瞬間 には ) 動いて、
動いた“局面” を 示し続けて いきます
このようなこと に (古代ギリシャの賢人)ヘラクレイトス は
「 万物は流転する 」 と 言った わけです
「 万物 は 動かざる姿 を 見せている 」
動くことのない 位置から 動かない姿を 見る
*
> ゆえに 、 わたしは ブッダ だということは 真実 です
そうだと思う。街中の人は、ブッダなんだけど、わたしが意識しないので分からない。
街中の人のことはともかく、春間さまは、時々ブッダになるなと思ってます。
いつでもブッダ。。これをめざしたい。
*
> 街中の人は、ブッダなんだけど、わたしが意識しないので分からない。
意識するから
分からない=分かる
意識しなければ
街中に溶け込んで 行く・・・・( 居る )
> 街中の人のことはともかく
春間 のことは
( “今” のところ ) あなたのことではない
街中の 自分 の コ ト ・ あなた( という 意識 )
との、 ハザマに起きる 「 識 」 の 問題
> いつでもブッダ。。これをめざしたい。
目指すところ が “ なくなった ”
その “ とき ” に
起きる “ メザシカタ ” という
眼識 と 「 認識 」 の 進む方向
その方向 は いつでも “ 眼前 ” に 起きている
「 正法眼 蔵 」
「 蔵識 」 である故に、
「 識 」 に 訴える 「 識 」
その 「 識 」 ( 「 六識 」 ) を 保つ
常住 ( 行住 坐 臥 “ すべて ” )
「 禅 」
此処に於いての、 “ すべて ” ↑ が
鳩摩羅什 の 訳にある
「 照見 五蘊 皆空 度 “一切” 苦厄 」
“ 一切 ” を 指します
指で 指し示す方向・目の向く方向
おでこの向く方向 が 「 識 」
あえて、 それを 指し示さなければ ならない
「 認識 」 の “ 不思議・思議 ”
そこを “ 思議 して ”
“ しつつ ” 不思議 を 「 楽 」 する
“ ケサ ” の ぬくもり を 慈しむ
紛糾する 蔵識 を ながめる 、、、、、
・
*
マニカナ先生、こんばんわ
>体重33kgから40kgにまで復活しました。
おお、断食をされたお釈迦様のようだ
ここから乳粥の供養を受けて成道する王道パターンですね
ありがたや~(=人=)南無医王善逝
静脈から点滴で栄養を取っていた頃の体重が33kgです。これ以下になったら死ぬんでしょうね。
> ここから乳粥の供養を受けて成道する王道パターンですね
うーーん、乳がゆ供養していないのでふつうに体重増えてます。。
…………
新しいものよ、早く目覚めよ――南無リハビリ菩薩
…………
ご子息のリハビリが進んで何よりです。
一般的に、リハビリテーション(rehabilitation)のreは「再び」、
hailsは「再びできるようにする」という意味となるようですね。
これに対して、脳梗塞で倒れた免疫学者の多田富雄先生は、その著書
『寡黙なる巨人』の中で次のように述べていると聞いています。
「手足の麻痺は脳神経の細胞の死によるものであるからして決してもと
に戻るものではなく、機能が回復するとしたら、それは新たに作り出さ
れるものだ」。そのことをまた「今は弱々しく鈍重だが、無限の可能性
を秘めた新しい人は、私の中で胎動していた」と多田先生は言う。
病苦が、一切衆生悉有仏性を覚醒させたようでよく記憶に残っています。
そして、リハビリ(rehabilitate)というラテン語の言葉の意味は、
元に戻すというより、再び(re)能力を与える(rehabilitate)という。
ご子息も、無限の可能性(仏性)を秘めた、もう一人の新しい自分が
生れてきたという意味付けも可能ではないのでしょうか。
するとリハビリとは、病気からの回復は病気になる前の健康な身体に
戻ることではなく、「身体との新しい関係に入る」ということになる。
ご子息は「病苦」の中で「新しい自己」に目覚めたと思います。
宗教的に言えば「地獄に仏」。
病苦という地獄も、「新しい自己」を目覚めさせるための「仏の大悲」。
と病気と戦う方に教わります。
たとえ病人になっても「他者貢献」をしている菩薩(仏)とも言えます。
しかし、元に戻ったわけではないので、「目覚めた新しい自己」を再び
眠らせない努力が必要だと言います。その、「再び眠らせない努力」の
只中に「目覚めた自己」が証明されるのではないのでしょうか。
『般若心経』で言えば、「行深般若密多時」によって「照見五蘊皆空
度一切苦厄」が現成するものだと思います。
リハビリ菩薩のように、新しい自己を目覚めさせ続けて行きたいものです。
南無リハビリ菩薩 合掌。
*
ここが怪しい
> ご子息は「病苦」の中で「新しい自己」に目覚めたと思います。
新しくはない
けれど、 対する者は、 そこに、 仏道 を 見つける
> 宗教的に言えば「地獄に仏」。
地獄に仏は 存在せず
> 病苦という地獄も、
病苦 に あれば、 自己は見出せず
> 「新しい自己」を目覚めさせるための「仏の大悲」。と病気と戦う方に教わります。
新しい自個を見出せば、 それはすぐに、 古い自個となる
“ 自個 ” を 見出さない といういことが、 「 非我 」
“ 病気と戦う ”
戦っている 自個 を 他己として よく 観る と
病床にある 他己 は、 自己である と 知りうる
> たとえ病人になっても「他者貢献」をしている菩薩(仏)とも言えます。
「 菩薩 」 「 仏 」 は 他に 非ず
“ 個 我 ” を 滅するところに あり
ただし 、 「 菩薩 」 は
個我 の ソンズル ところ に あり
>しかし、元に戻ったわけではないので、「目覚めた新しい自己」を再び
眠らせない努力が必要だと言います。その、「再び眠らせない努力」の
只中に「目覚めた自己」が証明されるのではないのでしょうか。
努力とは 出来ない・出来ていない 今 から
離れることがなく
離れられざる 故に 成就 は そこにはない
努力により 目覚めた自己 など 存在したことはない
( 反例があれば 示してごらん )
> 『般若心経』で言えば、「行深般若密多時」によって「照見五蘊皆空
度一切苦厄」が現成するものだと思います。
思ったところ、 思うところ に 現成 は ナイ !
玄奘 が 「 一切 を 言わざるを得ないところに
「 世間 」 があり
「 世間 」 を 超えたところに 般若波羅蜜多 があり
それを 舎利子 に 語っている以上
一切 ! 「 一切 」 に 関わっていてはいけな( ?? )
> リハビリ菩薩のように、新しい自己を目覚めさせ続けて行きたいものです。
南無リハビリ菩薩 合掌。
いくら 目覚め という言葉 を 使おうと
寝言 では 目覚めに 到達できない
寝言 を 忘れて 目覚めに至る
*
マニカナ先生、こんばんわ
その馬はパンサラッサですかね。
もっと古い有名馬かと思ったら最近の馬ですね。
お、詳しいですね。パンサラッサ、あたり!です。
もう一人の息子が競馬場に行って買ってきてくれました。
「うま」く回復していきますように、ってことかな。
ビッグリボンという名前の馬がいるのですが、わたしは、
「ビックリ・ボン」という名前だと思っていました。
真実を知って、びっくり、ぼん!
パンサラッサはとんでもない逃げ馬ですね
逃げ馬で勝てるというのはポテンシャルがすごく高くて
性格に難がある馬ですね
逃げ切りのレースはなかなか見ることができないです。
名前はパンゲア(超大陸)を囲む海パンサッラサ(超大洋)
世界最高賞金のサウジカップ
https://www.youtube.com/watch?v=8gJjexoKc2Q
中山記念
https://www.youtube.com/watch?v=ySUPZQdwx_Y
> 逃げ切りのレースはなかなか見ることができないです。
たまたま最初に見たレースが逃げ切りのレースでした。
普通は、後ろから抜かれるのになあ、って思いました。
> 逃げ馬で勝てるというのはポテンシャルがすごく高くて
性格に難がある馬ですね
そうなんだ。。なるほど。。息子にふさわしいかも。
よく考えたらパンサラッサって今年のサウジカップ(ダート)勝ってたのね
記憶にあったのは去年のドバイターフ(芝)の奇跡の勝利
ドバイターフ パンサラッサ(PANTHALASSA)ドバイワールドカップデー2022
https://www.youtube.com/watch?v=pAh7_R_JZ0g
大レースで先行逃げ切りで勝つのはすごいっす
門外漢 です
そういう ” スゴイッ ”話は、
もう一人の 息子さんと
ここへの関連 を 含めて するのが 適当ではないでしょうか
( 門外 “ 漢 ” で インドと どのように
関連付けるかが わからない故に )
教えていただければ、 話し に 加わることも
可能かと 、、、、、
( 加わられたくないかも 、、、、、、 )
先行逃げ切りは、ブッダのわざ、とも言えるような。。
誰も追いついてない!
「和をもって尊し」となした人々だけが、追いつけている ブッダの真理。
仏教の教えを、学んでいます。
パンサラッサ「ティトーアハム(わたしは止まっている)」
え?カエルさんが先生と何を話そうと自由なのでわ?
何が話されているか を
どのように、知ろうと するか も 、
( 「 仏教 」 上での )「 自由 」にかかわります
何故、 疑問を投げかける のが
‟ カエル 様 の 自由 ” を
侵害する と 思われるのですか ?
めったにないことをするから、尊ばれる。
めったに見ないわたしでも知ってる。競馬では後ろから走ってきた馬に抜かれるなあ、って。
そういうレースがふつうなのに、後ろから走ってきた馬に抜かれない、ってびっくり・ぼん!
仏教、って、ふつうから出発して必ず不思議にいたる
口には出さねど、心に思う。。ブッダは‘神’対応する、って。
えー、なんでだろう?なんとなく、印象でかな、
内容わかんないなら、(わかんないな~)とスルーすればいいのに、
と思った。難癖付けてるように感じたのかな。違うんならいいです、
ごめーん。
*
追いついた人 を アルハト と呼ぶ
最初・後 を 重視するとき 追いついた という ことが起きる
それは 、 Buddha の 気付きにはない 、、、、
最初 も 途中も ツイニ も ない 、、、、
「 平等 」 とは 、 どこにも 上下・左右 がないこと
常不軽 であり ( そのようにある と、 常に軽んじられる )
あなた方 は ( 自分を含めてはいない ! )
成就にある ( トチュウ・ツイニ を 問わず ! )
人である故に 手をあわせる( 五体投地する )
道を歩む
どこが 目的地 か わたしは知らぬ
知らぬ道を歩む
知っているあなたに 手 を あわせる
そして そっと そこから離れる
わたしは 知らぬ道を歩んでいる
そして 道 は
ある起用によって 成り立っているのではなく
あるく ところ に ついてくる と しんじつ つ
あなたにであい あなたに て を さしのべる
・
*
止っている と “ 思う ”
その心 は 動いている
*
*
> 先行逃げ切りは、ブッダのわざ、とも言えるような。。
>> 追いついた人 を アルハト と呼ぶ
> 誰も追いついてない!
>> 追いついてはいない と
みなすこと が 出来る 根拠 は どこ?
>> 最初・後 を 重視するとき
追いついた という ことが起きる
それは 、 Buddha の 気付きにはない
成就にある ( トチュウ・ツイニ を 問わず ! )
常不軽 である
> 「和をもって尊し」となした人々だけが、追いつけている ブッダの真理。
成就して、 「 ワ 」 を 知る
和 であり 倭 であり 吾 でもある
話・把 の中で 学び合う
> 仏教の教えを、学んでいます。
自分なり の 真似び で 「 真 」 を知り
自分の 読み方 で 話されていることを理解する
そこには “自分” は いない と、
“自分”なり ! に かくにんしつつ 、、、、
“自分”なりに
( > ) 誰も追いついてない と “判断” “断定 する
誰も いなければ、 誰も 反論できないこと
追いついた人があろうと、
追いついたと思う心 が 後に 残る 、、、、
残っているモノ が 後を追う
、、、、
( それは “自分のモノ” なのではなかろうか )
・
*
> 誰も追いついてない!
>> 追いついてはいない と
>> みなすこと が 出来る 根拠 は どこ?
ブッダは、論理で人々を分類した。従来インドにあった「四句分別」も使った、ブッダオリジナルの「縁起」も使った。四句分別と縁起を連絡させるように、「空」を使い「中道」を使い、使い方を人々に教えた。煩悩が入ると時間が入る。時間を入れたら、入れたことを忘れてはいけない。仮設(仮にもし~なら、…だろう)したら、時間にしたがって進むことを忘れてはいけない。
もし生き物に生まれたなら、争ってはならない、苦しみだから。
やられたらやり返せ、というのは、苦しみが永遠に続くもとである。
智慧によって苦しみを払いなさい。。
ブッダは先駆け、後に来るものたちが追いつくこともある。
ロードノースのように同着一位になる者たちは、諸仏である。
なんか、象徴的ですねえ。。眼横鼻直。。
*
言葉 に、 前後なし 順序なし
一つの塊になって はじめて 存在する 意味
その意味 次の意味 そして、ここに起きる意味
これらも 前後なく 一つとなって 意味の塊となり
その塊は さらにかたまり 幾重にも重なり
宇宙の果てへ ふくらんでいく
膨らみを持つ ということは
時空 は 曲がっている ということ
だからこそ そこに
決して曲がらない 「 芯 」 が 起きる
「 永遠 」 とは 膨らみ続けるさま である
それに “ 縁って ” ( 初まって ! 終わりなく )
起きる 膨らみ
そこに ( 「 眼横 」 たる )
「 鼻直 」( 「 芯 」 ) が 起きる
釈迦牟尼 は 前に生まれ 前に 死んだ のではなく
前 を 後とする ことが出来ない
( この 「 世間 」 に おいて の )
人の生 に 死んでいるに過ぎない
たしかに 順序 は ある
「 論理 」 立てようと、すればするほど
組み立ては緻密になり ( 壊れ難くなり )
後先をたがえれば 「 体を為さない 」
そのようなところに とどまって いては いけない
・
> だからこそ そこに
> 決して曲がらない 「 芯 」 が 起きる
「だからこそ」以下、よく飲み込めません。
「芯」が起きるかな??
「とどまっていてはいけない」ってところは、どこなんだろ。。
よくわからないっす。
*
> だからこそ そこに
> 決して曲がらない 「 芯 」 が 起きる
だからこそ そこ(時空)に
決して曲がらない 「 芯 」 ( “ 「 永遠 」 ” ) が 起きる
> 「 永遠 」 とは 膨らみ続けるさま である
さま であり 「 世間 」 であり つつ
同時に其処に 着然としてある 「 仏世界 」
膨らみ続けるとき 意識上 ・ 「 識 」
そこにおいて “ 曲がり ” が 起きる
“ 膨らみ続けるさま ” を “ 一体 ” と 見ることが
適えば
そこには、 曲がり も 膨らみ も ない
静止していつつ 膨らむ様を 内臓している
( 外様・外見 としては 分別に適わない )
“「 永遠 」”とは 分別( 判別・判断 ) に乗らない 区切り
昨日・今日・明日 、 過去・現在・未来 上中下 左中右
あなたの「 世間 」 ・ “ ローカ・ダートゥ ” にある
自分・他人 という 区別
自己の “モノ” があって、
自己の時間概念・時で括られた( “モノ” )があり
他己 の 時間概念・時で括られた( “モノ” ) を
自己 と 共有して “ そこに 惑う ”
“モノ”=「 色 」、虚仮 ( 世間虚仮 ・ 「 空 」 )
> 「とどまっていてはいけない」ってところは、どこなんだろ。。
膨らみ続ける “ サマ ” ・ 「 世間 」 に
飲み込まれていて ( そこに とどまっていて )
( 彷徨って いて ) は いけない
分別して シコウシテ・而 “ 知り ”
( その後 ではなく )
分別を超えて “ 領解する ” ・ 「 慧 」 とする
( そこに 「 瞑想 」 が 起きている )
・
*
「 そんな説明 で “ ワカル ” ワケ・分け・訳 ない 」
って いうのが、 “ 通り ” 一偏 の 考え方
二辺 を 知れば いっぺんに分かる
「 中道 」 とは “ とおりいっぺん ”の
ナカホド に ある 歩度 ( ある ク ドし方 )
読み取らない のは いかんともしがたい
*
> 読み取らない のは いかんともしがたい
読み取れない のは どうとでもなる
“ どうするか ” は 読む人 しだい
“ シゴ ” ( わたくしの声 ) を 訪ねて
そこに自らを聞く の 体 あり
どうやら 此処では 「 私語厳禁 」 の 風 あり
ソウソウの“ テイ ” で ソコ から 離れる
*
「私語厳禁」の風
語ることばは 風の音 説心説性である
私語 だけが 語ることば
ことば? 音かな
厳禁 だけが 現成してますか ?