「赤い!」は世間の目。

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北海道では、紅葉もそろそろ終わりですね。樹木は葉が落ちてきて冬支度に入りつつあります。

でも、暖かい日差しの中で生け垣の赤がまぶしいなぁ。天気予報では、これから一気に寒くなるらしいけど、まだ暖かい。

最後の紅葉を載せてみよう。

ちょっと絵画のよう。。かな。

さて、今、またまた『大智度論』を読んでいます。どこを開いても、深い。ブッダと変わらない。

ためしに無作為に引っ張ってみよう。

佛法中有。以世界悉檀故實
有。以各各爲人悉檀故實有。以對治悉檀
故實有。以第一義悉檀故實有。(『大正蔵』25,『大智度論』,p.59b)

仏法中の有は、世界悉檀の故に実有なり、各各為人悉檀をもっての故に実有なり、對治悉檀をもっての故に実有なり、第一義悉檀をもっての故に実有なり。

仏法には四つの書き方があって、それらはみなそれぞれ特徴をもっている。みな、その特徴をもった書き方のゆえに、みな、「実有である」と言われている。あれ?そんなことを言っていいの?

「実有」って、実在論者がよく使うことばで、仏教ではあまり使わないはずなのに、平気で使ってるね。

「実有」の意味は、’sadbhūta’あたりかもしれない。「実際その通りに有る」という意味だろう。

たとえば、乳ということばを取り上げよう。カルシウムいっぱいの、白い、美味しい牛乳は、子どもが好んで飲むもので栄養価の高い飲み物です。これらは「無い」とは言えない。

「牛さんがお乳を出すので子牛は大きくなるんだよ、〇〇ちゃんも牛乳飲んで大きくなろうね」と言われて、牛乳を飲んだ記憶があるだろう。

無条件で使われることばはない。牛さんもいて、〇〇ちゃんもいる世界だからこそ、乳もある。

また別に、ウィルスがいてコロナが流行る世界には、世間的には手洗い・うがいがある。医学と世間が結びついた世界を想定すると、そこで使われることばがある。

科学と世界が結びついて、そういう言い方が成りたつ世界が設定される。

4とおりの言い方を駆使して、ブッダが存在する(=有る)。いやいや、「存在する(有る)」は世界悉檀だ。ブッダの目を通して見れば、「有る」「無い」に近づかない世界というのも「ある」のである。世間の人にわかるように、ブッダはことばを使っている。。

いちおー、龍樹も、そうだと言っておこう。

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