
写真を撮りに行けないので、未公開の最後の一枚をアップしよう。タイトルは、思いつかないので、「ブッダの目。龍樹の目。」としてみました。
昨日から龍樹の『中論頌』と格闘しています。昨日だけじゃなくて、前からだけど。
そして疲弊しまくってます。『中論頌』、本気でむずい!
まず、最初は、縁起と格闘して20年の月日が流れた。それからは空と格闘し続けている。縁起には、「時」という縛りがあるので、それでもまだ考えやすい。空に比べると、ということだけど。
しかし、空は、いかんともしがたい。
「無自性空」という表現があるけれど、「無自性であるから空である」と説明されたりする。もちろん、間違っていない。だけど、これだけではまだ何を言っているのかわからない。
自在に空を操る龍樹は、空を目的としながら、時には自性をもって語ることもできる。
あの龍樹が自性をもって語ったら,空にはならないでしょ。無自性空は決まってるんだから自性をもって語る、なんてありえない。。
いやいや、あの龍樹なんですよ。龍樹なら何でもできるだろ。。自性をもって相手の言い方そっくりな表現を用いたかと思うと、たちまち、それを消して寂滅の境地にもっていったりもする。変幻自在な人物だ。
実在論者といわれる人々は、率直に言うと、わたしたちのことである。「ものは有る」という考え方から逃れられない。
この見方を排除して,ブッダの目や龍樹の目を手に入れるのは、至難のワザだ。
ただ、そうなるためには、嘘をつかず真実を求めること。多くの人は、そうなりたいと思っているけど、嘘をついているのかいないのか、自分で自分がわからない。
あるがままに捉えきれないからだ。煩悩って根深いものだね。というところで、
今日はこの辺にしよう。
コメント
> 縁起には、「時」という縛りがあるので、それでもまだ考えやすい。空に比べると、ということだけど。
「時」 という 縛りで
「 縁起 」 を 解釈 する と
↓
因が あって ( “シコウシテ”・而 得ている 時 を 経て・握って )
↓ ↓
果が 起きる と “ しる・ 「識」する ” ( “思考下” の 得ブツ )
「 論 」 を 思考下のこと に してしまう( 考える・識 )
> しかし、空は、いかんともしがたい。
ここに 「放下著」 が 起きる
> 「無自性空」という表現があるけれど、「無自性であるから空である」と説明されたりする。もちろん、間違っていない。だけど、これだけではまだ何を言っているのかわからない。
これだけで わかるように これだけを “ 放下” する
その 放下 を 「 空 」 と “ 為す ・ 「 行 」 ずる ”
> 自在に空を操る龍樹は、空を目的としながら、時には自性をもって語ることもできる。
操っている のではなく、
誤り・迷誤 を 指摘するには 誤り・迷誤 を 用いなければならない
( 「 菩薩 」 は そこにおいて、 「 経 」 を “ 読む ・ 聞く ” )
> あの龍樹が自性をもって語ったら,空にはならないでしょ。無自性空は決まってるんだから自性をもって語る、なんてありえない。。
ありえないこと を 用いて ありえないこと(虚仮) を 明かす
> いやいや、あの龍樹なんですよ。龍樹なら何でもできるだろ。。自性をもって相手の言い方そっくりな表現を用いたかと思うと、たちまち、それを消して寂滅の境地にもっていったりもする。変幻自在な人物だ。
一直線上 に 並ぶ テキスト を 一直線上で
「 時 」 に 従い 「時」 ・ 「時」 と 分断して↓
握る( 思考する ) ( 握っている 思考下 の 得ブツ )
分断するから 個別に起きた事 として 一直線上 に 順に並べられる
> 実在論者といわれる人々は、率直に言うと、わたしたちのことである。「ものは有る」という考え方から逃れられない。
> この見方を排除して,ブッダの目や龍樹の目を手に入れるのは、至難のワザだ。
“ この見方 ” に “ 因って ”
「 唯仏 」 を 思念して( 至難 とする ) 是 真 ?
↓
( 自分の 目 で 事物 を 見る )
↓
> ただ、そうなるためには、嘘をつかず真実を求めること。多くの人は、そうなりたいと思っているけど、嘘をついているのかいないのか、自分で自分がわからない。
「 色 」 は 「 識 」 の 囲いの中で 彩りを展開する
( 思考 によって 思考 を 明かすことはできない )
自分の目 を用いて “ 自分を見ること・脚下照顧 ” は 出来ない
( 只管打坐 ・ ひたすら 放下する )
> あるがままに捉えきれないからだ。煩悩って根深いものだね。というところで、
“ あるがまま ” とは、
「 識 」 に於ける “ 思考上の思念 ” を 指す ( 場合が ある )
「 世間 」 は “あるがまま” に 起されている・起こしている
「 識 」 なるモノ は “ 色・ジョウ ” のこと ( 「 色 」 と 同じ )
「 定 」 に 於いては “ 起されること ” は ない
そこにおいて
ジョウフキョウ・定不経 「 菩薩 」 は ( 経・定 を 軽んぜず )
「 我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得仏 」
と ( 「 世間 」 に於いて ) 示す
( 「 行 」 と する )
葦束の喩えって時間無視ですよね
原因も結果も因果関係もドゥッカも消えてなくなる
マニカナ先生的な表現だと空?
カエル的には誤解される用語は避けるのでニローダかにゃ
初期サンガの中心はサーリプッタではないかあと推測
釈尊とは別の個性が優れていたと感じる
カエルさま すごく考えちゃいますね。
> 葦束の喩えって時間無視ですよね
いやいや、縁起という関係から見たら、時間はしっかり入ってるんじゃないでしょうか。
「識に縁って名色が生ずる」とは、最期の識(結生識)に縁って名色が生ずること。
「名色に縁って識が生ずる」とは普段の認識。輪廻する時、葦束のように識と名色は支え合っている。
サーリプッタは、触をおさえて智慧の長老となった。。確かに、ブッダとは少し違う個性を感じます。
という会話を前世で何回か繰り返した記憶がw
カエルにとっては十二支縁起はアレなんで、葦束経のキモは
前半の舎利弗尊者のはぐらかしと後半の葦束の喩えの絶妙さですかね
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snnv/sn12/sn12c67.htm
要は箭喩経と同じで自作とか他作とかの議論よりも箭を抜くことが大事ってことでしょう
議論よりも葦束が倒れるのが大事
カエルさま
> 前半の舎利弗尊者のはぐらかしと後半の葦束の喩えの絶妙さですかね
はぐらかし、か。。ブッダの答え方なんだけど、一般には通用しないってことですね。
葦束の喩えは、根拠なく成り立つことの喩えになっているような。
識と名色は、そんな感じ。普通の人は、必ず輪廻するってことですよね。
これに無明→行→とつくと、輪廻を脱することができる。
葦束は空を表すと見ることもできる。
マニカナ先生、こんばんわ
>般には通用しない
あくまで外道視点、自由思想家視点ですからね
言質を与えない釈尊と舎利弗
>葦束は空を表すと見ることもできる。
葦束が互いに寄りかかって立っていれば視界を塞ぐ
寄りかかってるだけで立ってるのがわかれば倒れる
地べたに倒れれば視界を塞がない、ないも同然
全部の葦束が倒れれば、地平線まで空(そら)ですね
パーリ仏典マイナスアビダンマ
パーリ仏典マイナス十二支縁起がとても楽しい
カエルさまや!
> 全部の葦束が倒れれば、地平線まで空(そら)ですね
パンパカパ~ン♪ カエルは、空無辺処を手に入れた。
なるほど、その感覚、わかってきたかも。
事物は「共同性」によって存在する
変わり者(言語妄念論者)の実験的な言語の読み換えです。
言語を大切にする真摯な経典訳者には揚げ足取りと取られる面もある
かと思いますが、言語にテキトーな変わり者の失礼をお許し下さい。
難解な自性(物それ自体の独自の本性)を、「単独性」と実験的に読
み換えてみますと、無自性が「単独で存在できるものはない」と読み
換えられ、新たは世界が広がります。
したがって、単独で存在できる虚構の自己は無いが、他と共に共同で
きる自己の真実が観想できます。
最近、世界史を学び直している中で、仏教も龍樹も、そして自己も、
単独には存在できず、歴史環境との共同性に縁って生起したように思
えています。
慧樹さま(芳和さま)
> 仏教も龍樹も、そして自己も、
単独には存在できず、歴史環境との共同性に縁って生起したように思
えています。
一文の中にいろいろな作為を感じます。ある意味、芳和さまらしいと言いますか。
仏教も、龍樹も、自己も、単独には存在できない、となっていますが、どうしても「自己」を認めたいのですね。
こだわりがあると智慧がわきにくいのではないかと思いますが、どうでしょうか。
「真実の自己」の調御で「煩悩の自己」を生きる
私の文章が、真実を故意に捻じ曲げる作為に見えますか。
確かに、私も煩悩だらけの凡夫ですから、何らかの作為はあります
ので、そんな欠点を認識した上で「仮説」です。
確かに対立するものはありますが、その対立も自己を深めるために意味
があるもので敵意ではありません。
「煩悩の自己」が「真実の自己」を観想すると共に、「真実の自己」
が「煩悩の自己」を調御しつつ生きるという道もあるということです。
その空なる「真実の自己」を「観音菩薩」と仮に呼んでいます。
「煩悩」と「悟り」の相対対立(二者択一)を絶する中道空の道と信解
していますが、どんな思想にも欠点はありますので「仮設」として、
自己を誡めています。
仏教の欠点は、虚無(ニヒリズム)の闇を含むとことではないでしょうか。
虚無に陥らずに、虚無と共に在る実有を観想しつつ生きたいと思います。
虚無に偏らず、実有に偏らず。虚無と実有の「縁起の自己」を修証して
生きたいと思います。
経験上、虚無的な生き方に反対する者です。
私にとっての仏教は「己事究明」で、いかに「善く生きるか」を目的と
するものです。今の命を丁寧に生きたいと思っています。
慧樹さま(芳和さま)
> 「真実の自己」の調御で「煩悩の自己」を生きる
> 私の文章が、真実を故意に捻じ曲げる作為に見えますか。
見えますよ。「真実の自己」を調御して「煩悩の自己」を生きる、と書いてますからね。
文字通りではないでしょうか。
*
>> 「 どんな思想にも欠点はあります
ので 「仮設」として、
自己を誡めています 」
その 仮設 で 自己を戒めている わけです
( >> どんな思想にも欠点がある という 思想
>> 「仮設」として、自己を誡めている という 思想 )
仮設 されている 欠点がある・あなた の 思想 が
>> 「煩悩の自己」が「真実の自己」を観想する
と共に、 「真実の自己」が「煩悩の自己」を調御
しつつ生きるという道もある
という思想 です
自己の欠点 のある
仮設されている思想 の基
で 生きている あなた
>> その空なる「真実の自己」
で 生きてる あなた
その 空なる 「 真実の自己 」 ということ が
欠点がある 仮設されている思想
だとされて そこに 記されています
そのように あなたの文章 は 書き記されているのです
管理人エム 様 は 天然 で ( 自然・じねん に於いて )
ソレ を 読み取ることが 適う人です
> 文字通りではないでしょうか。
ということ を 読み取ることが出来ない
>> 「真実の自己」を調御して「煩悩の自己」を生きる
あなたは 管理人エム 様 の 読み方から
>> 「煩悩の自己」を生きる
↓
“ 者 ” として
「 煩悩の自己 」 として
何を 学び取る “ 者 ” ですか ?
( このことを 読み取ろうとしない あなた “ 達 ” )
・
> 確かに
その確かさ は 煩悩によります が
煩悩 は それを
( “確か” ではない こと であるにもかかわらず )
“ 確かに ” と 動かざる確信をもって
( あたかも 「 真理 」 であるがごとく )
言う ( 識する ・ 認識し広言する )
> 私も煩悩だらけの凡夫ですから、何らかの作為はあります
煩悩 がある 思考( 認識 ・ 「 識 」 ) に於いては
すべての事柄は 煩悩 を 通して 思考され 確信される
> ので、そんな欠点を認識した上で「仮説」です。
その 認識(思考) が 、 煩悩による 認識 なのです
複雑ですが、 仮設 とは 確信 なのです
“ これは仮設です ” という 表現 は 煩悩の表現であり
誤った 「 仮設 」 という (煩悩の)表現使用なのです
> どんな思想にも欠点はありますので
これが( こう思っていると 思う・識する ことが ) 煩悩 です
> 「仮設」として、
煩悩 は “ 仮設する ” ということを、
煩悩の作用 は 、 真実 仮設 出来ている と
思い違わせます
> 自己を誡めています。
戒めている と 煩悩 は 思考させます
( あなた自身 や 煩悩を持つ人に対して )
> 仏教の欠点は、虚無(ニヒリズム)の闇を含むとことではないでしょうか。
虚無に陥らずに、虚無と共に在る実有を観想しつつ生きたいと思います。
仮設を基に 自らそれを 行ないとすれば
仮設として の
> 虚無に陥らずに、虚無と共に在る実有を観想しつつ生きたいと思います。
という 思考指標 が 打ち建てられます
( そうしたい と ) それ を 思うこと それ自体 が
自体 ・ 「 自己 」 という
( 「 仏教 」 において の )
“ 自己は存在しない ” という 根本概念 から 外れています
このこと は 大変重要なことですが( 「 仏教 」 ) ですが
煩悩 に生きる 人 は ( 「 世間 」 に於いては )
正しい認識 が 誰にでも 起こしうる から
自分にも ( 正しく ) 起されている と 「 顛倒 」 します
「 遠離一切 顛倒夢想 」 と 「 一切 」 を 置くことにより
「 縁起 」 が そこに 起きています
そういう意味では “ 仏教の欠点 ” が 起きています が
あくまでも それは
「 仏教 」 を 文字化することに より 起きていることに過ぎません
「 煩悩 」 は 「 真理 」 と 「 顛倒 」 とを
ともに混同して 、 「 顛倒 」 しているのです
「 真理 」 には 「 顛倒 」 は ありません
けれども
「 顛倒 」 している という 真理 は
そこに用いられる 文字としての
「 顛倒 」 は 同じでも ( 覚者 と 迷誤者 との間では )
迷誤者 の 「 識 」 において
違いを見出すことが ( 菩提を起こすまでは )できません
“ 分かるまでは 分からない ” ということ が
“ 分かっていない人 ” の 認識に起きている
・
* * * * *
「 仏道もとより豊倹より跳出せる
ゆえに 生滅あり 迷悟あり 生佛あり
しかもかくのごとくなりといへども
華は愛惜にちり 草は棄嫌におふるのみなり 」
仏道 とは その歩み始め より
豊かである・つつましい ということから 飛び離れています
その ゆえに( ゆえんに )
生じる・滅する があり 迷い・悟り があり
世間に生きる・佛道の歩み があります
しかも そのように ものごとは ある
と いう けれども( との 理 を 口にするけれども )
華の その散りゆく のは 惜しまれ
草の生え広がる のは 捨て嫌われます
「 迷中又迷の漢あり 」
> 「 顛倒 」 している という 真理 は
そこに用いられる 文字としての
「 顛倒 」 は 同じでも ( 覚者 と 迷誤者 との間では )
迷誤者 の 「 識 」 において
違いを見出すことが ( 菩提を起こすまでは )できません <
そのような 世間に於いて 智を得て
迷誤者 と共にあって 迷い を 悟する 漢 が います
* * * * * *
マニカナ先生、こんばんわ
なんか返信しすぎて前ツリーは終わったようです。
九次第定も十二支縁起と同じ匂いがw
二支、三支の葦束を根気よく倒して到達する地平線の空と
九次第定の禅定はちょっと違うかな~どうかな~
結局、自分で確認して真実に到達するしかないですにゃ
カエルは武内義範、吹田隆道、梶山雄一、榎本文雄、仲宗根充修各先生の流れに近いようですね
> 二支、三支の葦束を根気よく倒して到達する地平線の空と
> 九次第定の禅定はちょっと違うかな~どうかな~
同じ道だと思うなぁ。二支は、肯定と否定、三支は、苦楽中道の選択肢。
九次第定は。。あれ?!よく分からなくなった。たぶん、二支と三支の組み合わせ、よくわからんけど。
> カエルは武内義範、吹田隆道、梶山雄一、榎本文雄、仲宗根充修各先生の流れに近いようですね
わたしは誰に近いかわかりません。
どうして、みんな、論理に目を向けないのかなぁ。。わかりやすいのに、って思うんだけど。
数に目がいくと論理に目がいきそうに思うけど。
マニカナ先生、こんにちわ
武内義範先生は浄土真宗の僧侶ですね。
ガザの殺し合いを見ていると信仰とはなにかを考えてしまいますね。
ユダヤ教、イスラム教とも造物主やその預言者に暴力を肯定させる役割をさせているので
第三者には教義的にはどうしょうもないです。
カエルさま こんばんは。
> ガザの殺し合いを見ていると信仰とはなにかを考えてしまいますね。
苦しみに目を向け言い争うことを戒めたブッダは、偉大だなとは思うけど、ガザの苦しみをどうにもできないわたしたちは、喉に何かが刺さった状態でご飯を食べているようなもの。。
恨みに恨みで返すなら、恨みが止むことはない。恨みを捨ててこそ恨みが止む。
『ダンマパダ』に気づいてほしい。
理論と行動の交互作用という「実践論理」
ゴータマ・ブッダは、始め「無明~執着~苦」という「三支縁起」
を説き、そして時代が下るに連れ四支縁起から十二縁起の至った
という説がある。素人目に大雑把に仏典などを読めば、その発展
説が自然のように思える。素人の丸柄杓の論理である。
龍樹の『因縁心論』で十二因縁は「惑業苦」に収束されるが、
これは始めの「三支縁起」に還ったとも取れる。
また、十二縁起は、順観・逆観・順逆同時観の「三支観法」とも
言われる。たとえば、無明から行を観て(順観)、行から無明を
観て、そして、覚者は無明と行とを同時に観る。
といっても、素人の私には覚者の「順逆同時観」はできないが、
心静かにすれば、無明から行を観て、行から無明を観るという
「順観・逆観」はできそうだ。
その「順観・逆観」が九次第定で言う、「苦も楽も離れた、清浄
なる非苦非楽の境地」という「四次第定」に該当しそうである。
唯識の修道論なら、末那識の一部が「平等性智」に転換され、
第六意識の一部が「妙観察智」に転換したところか。
しかしそれは、空を体現して「根本無分別智」を得てからの話
で、主客分裂した通常の智恵ではなく、一切の心・意・識が静
められた九次第定の「想受滅定」を通しての話である。
そこに至れば、終りと始めの分別は無く、終りと始りは同時と
なり、十二縁起も「無明・執着・苦」「惑業苦」という三支縁起
に還る。終りからの始まりである。
ゴータマ・ブッダは、苦からの解脱の道として「八正道」を説い
たのだから、苦を解脱させる真実の自己は「八正道を行ずる只中」
において現れる。
ゴータマ・ブッダが示された正しき道を真直ぐ歩いてみたいもの
である。ゴータマ・ブッダの論理は、理論と行動の交互作用という
「実践論理」だと思う。
行また行、行行行—――今を深めて行く以外にないようである。
私だけの丸柄杓の論理である。
「今のところ仏教って全然世界平和の役に立ってないよね~~」てことは、
「他の宗教とまったく同レベルだよね~~~~~~~~~~~」はぁぁぁぁ、、
【何か、上手いこと因果を操って(←おいおい)戦争を無くすことは出来ない
かね~~~~~~??でもでも、、戦争するとお金儲けが出来る人達が、
それこそ、人類始まって以来ずーーーーーっとそのポジションで頑張ってて
もはや芸術の域で因果を操ってるからそれを崩すのは中々難しいよねーー、、、
誰か、仏?阿弥陀っぽい人が多分、戦争屋さんを弾き飛ばしてそのポジションに
行ってる筈だけれど、仏教やってないとまさか自分がそんな誓願立ててたなんて
知るよしも無いしねーーーーー、どうやって気づいて貰えばいいのかねーー?
戦争やるとか他を搾取するより、もっと知的好奇心が満足してスリリングで
尊敬されて、今までとは比べものにならない位面白くてなおかつ儲かる、ような
方向へ誘導できればいいんだけどなーーーーぁぁぁ】
と、日々考えているんですが、世界平和の為で、自分の利益だけを考えなければ
「仏智」が頂けるはず、と信じてもの凄い時間掛けて考えてるのに、
一向にアイデア降ってこにゃい。。。きっと大学に行かなかったから、
「イノベーション」とかと無縁にゃのかもしれにゃい。。。はぁぁぁぁぁ、、、
この人生もこんなに自己肯定感が低いまま終わるのかーーーーーー。
あ、まだ55歳で突然死する可能性も考慮してます。(あのヤバい団体の紫の
着物のおばちゃんが死んだ年齢)もし、死んだら家族にこちらにご挨拶して
死因とか報告して貰えるように、預金通帳にメッセージを挟んでおきます。
いっつも、変なことばっかり言ってごめんなさい。皆様、良いお年を。。。
心優しいぎんたさま お元気ですかぁぁ。
イスラエルを戦争に向かわせているのは、集団の‘恐怖’じゃないか、って、気がしています。
イスラエルの人たちは、みんながみんな、戦争状態を望んでいるわけではないと思うんだけどね。
地道に声をあげていく以外にはないのかな、って思っているところです。
*
> 【何か、上手いこと因果を操って(←おいおい)戦争を無くすことは出来ない
かね~~~~~~??でもでも、、戦争するとお金儲けが出来る人達が、
それこそ、人類始まって以来ずーーーーーっとそのポジションで頑張ってて
そのように 喝破したつもり でも に 観えてはいないところに
大事なこと が あります
「 戦い 」 ということ は 人類発生に 付随して 起きることです
( 人は その 個 の 体内 に於いて
「 免疫 」 という 構造を持ち それは 破壊・取り込み です )
お金儲け は 人類発生 に 伴う のではなく
「 人類発生 “史” 」 という 歴“史”認識 を生む
「 識 」 の 世界 から 生まれています
“ 戦争するとお金儲けが出来る人 ” は 確かにいます
例えば 、 戦後歴史 を見れば 朝鮮戦争による 特需 で
日本は 経済的繁栄 を 得て 、
日露戦争時 の 国債の借財 を 完済できた のです
( 多くは 英国に関連する富豪 達 への )
一番大事なこと は “ 人類始まって以来 ” ではなく
“ 歴史認識 ” を 強要 する 教養 を 供応 する
富豪たちに都合のよい “ 史 感 ” が ある
ということです
戦う ということ は 決して 悪いことではありません
「 悪 」 との 戦い は 己の体内 に 因を発します
何が 「 悪 」 か を 見極める
「 ブッダの目。龍樹の目。 」
そして あなたの目
・
えーーー!!!!殺さなくても生きてけんのに!それでも殺すって「悪」じゃ
ないのーーーー??ぎんた仏教感覚で物事を見れない。一般人だから。。。
てか、イスラムとかキリスト教の殺戮は、その前の宗教?の人達が「中身」
だから発生するんだよね?『テスカポリトカ』佐藤究著で読んだよ。最近。
でも、仏教だって、「後継者」は殺されちゃう決まりだから、(なんだっけ、
2人いたよね?優秀な若い人)殺戮がついて回るのは変わらないハズ。
だから、そろそろ「宗教」なんて終了してみませんかー、試しに、、、と、
一般人はみんな思っている、たぶん。てか、春間さんは「悟っている」のですか
?(前から気になっていたんだけど)なら、そろそろ「なんとかしなさい!」
これは、くるねこ大和さんとこの故もんさん(スコティッシュのボブテイル)が
曇っている!!とか暑い!!とかの不満を「なんとかしなさい!!」って
飼い主に訴える感じです。
【人間に言えばあいつらがなんとかすると固く信じている】
べつに春間さんは飼い主ちゃうけど人間だから。しかも普通の人間よりも
「識っている領域が凄く広い」んだから。
早ーーーーくーーーーーーーーー
来世、紛争地帯の猫に産まれてミサイルで木っ端微塵とか厭にゃーーーーーー
今度こそ、良いお年を~~
*
しています
しかし、 何を、どうしているか を あなたには 理解しない
「 しています 」 と 言うことが、 していることです
翻って、 あなたが、 あなたの納得できないことについて、
あなたなりに していることは、
“ そろそろ「なんとかしなさい!」 ” と 言うこと
それも、 あなたのできることの一つ
それ以外にも、 あなたのできること が すぐ身近にあります
していないのではないか ? と 疑問を投げかけること
( 一つ は もう している )
( もう 一つ は まだしていない ) ??
わたしは 疑問を投げかける ( 自身にも )
あなたには 、 その疑問 が 起きているかな ?
・
春間さん(←ほとけ)言ってるからと思って一生懸命考えたけど、特に
ぎんたが身近にできること思いつかなかった。でもなんとか何か
捻り出そうと頑張ってみた。で、「自分が思っていること」を言ってみる。
あのーーー、今現在、ぎんたの心の内を観て、なにか見えてこないか
とトライしている人がもしいたら、止めた方がいいと伝えたいです。
例えば、一昨日は「獄中で点呼!」がエンドレスしていたでしょうし、
昨日はそれに「触ったら逮捕!」が加わりましたが、それは特に意味ない
です。どちらも最近偶然に出逢った曲、「粛正!!ロリ神レクイエム」で
脳内が一杯になっているだけです。誰か特定の人に「獄中に行って欲しい」
わけでは決してないので、変な風に解釈しないでください。
しぐれういのこの曲が秀逸すぎて画面を凝視しているのですが、踊りとか
情報量が多すぎて、「獄中で点呼!」しか覚えられませんでしたので、
エンドレスになっていただけです。で、なんとか覚えたくてじっと観るん
ですが、聴き入ってしまって、2日目は「触ったら逮捕!」しか追加で
覚えられなかったということなのです。
ねー?口に出して言うにはあまりにも、妄想的で、、、
マジで危険水域だー。。。というのが、最新の思っていること、です。
あ、「疑問」のほうは~、「自分は何が間違えているところだろう~」と
いうことです。なんか間違っていることは決定なんですが。
*
> なんか間違っていることは決定なんですが。
間違ってはいない人 は ”この世 ”には、 いません
何が、 間違っているか を 知ること は 出来ますが
知ったことは、 この世に起きている限り 間違っています
だからと言って、 問いかけるのは( 自分で、自分に )
意味ないこと、 ではなく、 大事なことです
得たことは 誤りであるから、
更なる問い を 問いかけるのです
そうしていることにより、その 問うことを伴う行ないは
迷路 を 外れているのです
自分を 信用しない その 自分 を 信じるのです
生きているかぎり、 その生き様は 問われなければなりません
決して “ ケイジュ ” の ごとく
いい加減に生きていてはいけないのです
( なぜ いい加減か を 問うことはできますか ? )
*
>自分を 信用しない その 自分 を 信じるのです
それって、あの危険な団体でいうと、開祖の言葉「自分の信に信頼を
置く」ってやつですかにゃ?以前(猫の自覚前)集会で質問したけど
解るような解んないような感じだった。今は、(あの団体、ヤバい)
という自分の感触を持ち続ける(信頼に足る情報に出逢うまでは)位
で考えてる。しょんで、「お金があれば巨大なビルも建ちます」とか
言って、「大きな精舎」建設に反対していた紫の着物のおばちゃんの
言ってることはもっともにゃんだけれども、日本各地にと、海外にも
ぼっこぼっこ精舎を建設したことで、【今、あるいは今後、かなり
苦しい状況に陥っていく】(なんなら潰れちゃう?)に繋がった
のならば、もうあんたら神過ぎ!!超絶いい仕事したyo!
そうかそうか、そこに向かってやってたんだね!!反対してごめん!
みたいなってるw(国立の博物館がクラファンしないと苦しい、みたな
時代だもんね)
「ケイジュ」が解らなかった。でも、いい加減に生きてる人はいないと
思います。何かの必然に向かってるだけだと思います。その「狙い」
に自覚的か気づいてないかはまったく問題ないです。物理的なことは
決まっててそれをどう受け止め・解釈するかの違いだけなんで。
だから、ぎんたも「早くーーー」なんて言う必要ないんだけど、なんか
言いたくなっちゃうよね、やっぱり。だから、なぜいい加減か、は、
(いい加減だな)と思わせれば危機感持ったり、自分はあんなんは
嫌だなと思わせること(目覚めさせる)ができるからでしょう。
あ、昨日の間違えた!「粛聖!!ロリ神レクイエム☆」でした。
仏教徒も殺戮をしてきた
YouTubeで佐藤幸雄という世界史の先生と出会った。本質を突く解説
に自分が如何に無知であったのか思い知らされ学び直している。
歴史はきれいごとでは済まされない。現に今、ガザで虐殺される子供
たちがいるのである。他人事ではなく、歴史的なパレスチナ問題を
学び直ことが必要である。そして、現実問題として、出来得る限り
犠牲を少なくしたいものである。
ガザの問題も、歴史も複雑な関係性の連鎖があり、人間の業縁の深さが
あり、結局は「人間の問題」である。
古代インド史も学び直しているが、仏教に帰依したマガタ国の王たち
も、領土を治める王であるという業縁で、領土争いの殺戮を繰り返し
てきた。「仏法による統治」をしたアシューカ王にしても、インドを
統一しようとしたら、多くの部族の殺戮もあり、その懺悔からの仏教
への帰依でもあった。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
と言ったのは親鸞であるが、どんな人間でも戦争の縁に出遭えば、
何千人も殺してしまうのである。そういう人間の悲しみを見つめられ
れば、争いの縁は減少するはずだが、弟子たちは一向一揆という殺人
を伴う業を犯してきた。
宗教は戦争の要因になるが、根本は私たち人間の心の問題である。
戦争反対を叫ぶだけではなく、他国に「攻め入る隙」を与えないよう
に、強く豊かな国にしなくてならない。
「攻め入る隙」を与えるのも「罪」である。
戦争要因も色々あるが、結局は、私たちひとり一人が、立派な人間に
なることが戦争を避けるための最上の道ではないのだろうか。
一切衆生と共に在る「真実の自己」に気づきたいものである。
ガザで殺戮されている子供たちは自己である。
歴史は自己である。
「真実の自己」を知るために、今、蔑ろにしてきた「インド古代史」
を学び直している。
*
> 結局は「人間の問題」である。
結局 は それを問題とする “ あなたの問題 ”
あなたが 、 それに対する行動 を 、
“ 如何に為すか ” という問題
> 弟子たちは一向一揆という殺人を伴う業を犯してきた。
そういうこと に 対して
「 親鸞は弟子一人も 持たず 」 と 言う
( 『歎 異 抄』『真宗聖典』628頁 )
真実 自己に向き合い 自己の為すべきことを 見つめる
そういう 一己 一己 であるから
その 一己 に
何を為すべきか の “ 一顧 ” が ある
そうであって 、 初めて “ 弥陀の本願 ” に 馴染む
> 「真実の自己」を知るために、今、蔑ろにしてきた「インド古代史」を学び直している。
自己を知ろうとはしない あなたが、 その身( 五蘊 )を 以てして
馴染み親しむ 方法で 自己を知ろうとする
問題( 解決の道 ) は 遠くに ある のではない
「 仏法非遥 心中即近 」 卍続蔵1-41-4 ・ 「 般若心経秘鍵 」
・
> 私たちひとり一人が、立派な人間に
なることが戦争を避けるための最上の道ではないのだろうか。
そのように気付いて、 行いを為す あなた
そのあなた に どのような問題があるか ?
> 一切衆生と共に在る「真実の自己」に気づきたいものである。
ブッダ と 共にある 一切衆生の一人
「 真実の自己 」 に気付いていない 迷いに中の一人
自分の言っていること に 「 顛倒 」 がある
と 、 気付こうとしない
“ 一切の衆生と共にある ” のは
「 顛倒 」 しているあなた
・
コーサラ国によるシャカ族の滅亡
紀元前五世紀頃というゴータマ・シッダールタ在世の頃は、イン
ドに侵入してきたアーリア人の作った小国が16国ほど乱立する
時代であったという。アーリア人は多神教のバラモン教という祭
司階級支配と、ヴァルナ(カースト)制を持ち込んで先住民を支
配する小国を作ってゆく。
ゴータマ・ブッダが生れた釈迦族もアーリア人の釈迦一族支配の
国であったのだろう。生まれた子にラーフラ(悪魔)という名を
付けたくらいだから、アーリア(高貴な白人)という傲慢な選民
意識の血脈に悪魔的な穢れを感じていたのだろうか。
悪魔的なアーリアの血脈に疑問を感じてゴータマ・シッダールタ
は出家した面もあったと推測される。
ゴータマはマダカ国の王から、シャカ族への支援をするから皇太
子に戻らないかという提案を受ける。小国のシャカ国が隣接する
コーサラ国に滅ぼされる危険があったのだろう。政治的からした
らマダカ国王の提案は正しい。
覇道からしたらゴータマ・シッダールタは余りにも愚かである。
コーサラ国の侵入によってどれだけの人が戦って死に、そして殺戮
されたかを思えば余りにも悲しい。犠牲が多過ぎた。
マダカ国と同盟を結び、コーサラ国を包囲していれば一族皆殺しと
いうような犠牲は免れたかも知れない、というのは俗人の考えなの
なのだろうか。自己犠牲を厭わないゴータマ・シッダールタの純粋
過ぎる優しさが余りにも悲しく、逆に跪かずにはいられない。
人間は、今も昔も、攻める「矛」と守る「盾」という矛盾を抱え込み
つつ歴史を刻んでいる。優しさと強さも矛盾を統べる智慧と慈悲を
探求して行きたいものである。