すっかり紅葉が進んでいます。イチョウが黄色く色づいてきました。
もう一つアップするかな。
これからですね。もっと黄色が鮮やかになってきますね。
さて、タイトルにあげた『古代インド論理学の研究』ですが、拙著コーナーにアップしました。
「これまでに出た本」というコンテンツに入っています。今まで一般向けの本が多かったのですが、初の専門書といった雰囲気で、お値段がはります。一般書は「出ては消え」というバブルのような本たちですが、これらの本たちをまとめるとこうなる、というのが『古代インド論理学の研究』だと思っています。
「論理」ということば、「ニャーヤ」と書かれたり、「ニヤーヤ」と書かれたりするけど、こういうことばがインドにあって、しかも、それを「論理」とか「LOGIC」と訳してきた、ってことにも何か不思議を感じます。
語根nī-(導く、lead)から作られたことば。誘導するように結論に導いていく筋道、って感じかな。そこで「論理」と訳される。
「倒れた人を起こすように」「覆われたものを開くように」「道に迷ったものを告げ教えるように」「『まなこあるものは色形を見るだろう』と灯火を差し出すように」導く者が、ブッダです。
だけど、ここで気づくことがあるでしょう?気づきませんか?
答えを「これこれだ」とは言ってない、ってことに!
答えは自分で見つけるものとして、筋道(=論理、ニャーヤ)だけを示すんだね。
だから、あーだのこーだの、結論だけ言うものはブッダではない、と分かる仕組みになっている。
筋道だけを示して、後はそれぞれの人に任せる教えが仏教だ!
それぞれの結論に向かうそれぞれの筋道の根本におかれるのが
縁起
という ものの見方で ある。そこから出てくるヴァリエーションが
空
である。だから、仏教を自分の法として、さまざまに語る人々が輩出するのである。
部派に分かれていくのは自然な流れであり、大乗の考え方が出てくるのも自然な流れである。それらは、ブッダに縁りながらも、ブッダにべったり依りかからない、独立・自立した人たちの思想活動である。
ブッダは,生き物の一つの生き方の理想である。
コメント
> ブッダは,生き物の一つの生き方の理想である。
> 部派に分かれていくのは自然な流れであり、大乗の考え方が出てくるのも自然な流れである。それらは、ブッダに縁りながらも、ブッダにべったり依りかからない、独立・自立した人たちの思想活動である。
これらのこと ( これ と これ ) は 結論として述べられている
> 答えを「これこれだ」とは言ってない、ってことに!
>答えは自分で見つけるものとして、筋道(=論理、ニャーヤ)だけを示すんだね。
>だから、あーだのこーだの、結論だけ言うものはブッダではない、と分かる仕組みになっている。
ブッダではない 者 が 結論付ける
ブッダではない
一応 筋道に沿って 記されるけれど
導き出されている 結論 が ブッダ の モノ ではない
理想通り に 歩みを進める のが 人生
ブッダではない時
その理想 は 「 顛倒 」 されている
理想通り とは 名付けられることがない
天道 の 通り道
コウドウ ( オウドウ 黄・皇 「 行 」 )
さて
この用法 における 結論 は
「 顛倒 」 が 生み出す ( 酔う ) 「 法 」 か ?
はたまた
顛倒 しても 話すことが出来ない “ つえ ” か ?
( 翁 と呼ばれて 語るに 落ちる ・ 転ぶ のか ? )
( 知恵を以って 智慧に 応える オウナ か ? )
智慧を以って 知恵に 応える オイタ “ モノ ” か ?
「 智慧 」 を そっと オイテ みる
チョット バカ リ オイタ シテミル
・
> これらのこと ( これ と これ ) は 結論として述べられている
そういうわけでもないけど、そう取ってもかまわない。
> ブッダではない 者 が 結論付ける
> ブッダではない
わかりきったことを書くのも、よい。正しいから。
他人のことを書くと自分に返ってくるのは、「地獄」の相。
いいんだ、何を書いても。
その人自身を示すだけなんだ、って、知っている。
語ってはじめて、その人を知る。。そういう道を行く。
> わかりきったことを書くのも、よい。正しいから。
分かったコト を 書く
( 人事 を 切る・片である故に欠くところあり )
カクシテ ・ このようにして
隠された 「 処 」 を ミツに知る
( ひふみ と 密に 切る 片・ポーション )
悪い を 知る 故は 良い 日々
( 良い を知る 故 が 起きる 日々 )
> 他人のことを書くと自分に返ってくるのは、「地獄」の相。
誰のこと を 書こうと ( 受け 取られねば ) 還る
( 「 空 取 還郷 」 )
「 空 」 を 掌中に籠め そっと 「 業 」 を 開く
見せている のは 「 業 」 か 「 空 」 か
はたまた 単なる “ 取 「 見 」 ” か
「 見取 」 見 ・ 見 取見
「 取見 」 を 以って 「 見 」 を 取すると
「 執 」 に 着する
> その人自身を示すだけなんだ、って、知っている。
示されている のは 示す “己” ではなく
取 見 ( 己というモノ は 常に 「 見 」に 起きること )
その人自身 という “己” は ない
知っている 己 が 知られること は ない
知らない 己 を ブッダ と 呼ぶ
( 知っていること で 成り立っている 「 世間 」 )
知らない ということ を 知らない → 虚・世間 ・ 器世間
> 語ってはじめて、その人を知る。。
語って はじめて 語る 己 をしる こ と ば
ことのは は ひとりまいちる このよ か せ
あさつゆ を むすふ くさのは みるか あさやけ
ひとをしる ひともゆる ひとときのこと
とおき を のぞみて ちかきにしる
あさきゆめ ゆえ なみま に すすむ
よせて は ひく か みず うみ の なみ
みちをうしない こち に たたすむ
・
> みちをうしない こち に たたすむ
もしかして。。ミチオ あやまったもよう かな?
ミチヲ あやまって いる もよう ならば、ブッダのことばがある。
「道に迷った者に告げ教えるように」と。
形而上学には行かない ブッダのことば。
ことのは、印象深い、言の葉、はしきれ。
エム先生
やっほー!PLです。10年お世話になってきたハンドルネームですが、これからはRyukoにします!
> 答えを「これこれだ」とは言ってない、ってことに!
~(略)~
> ブッダは,生き物の一つの生き方の理想である。
あ~~~、すっごいわこれ!そう!僕がぼんやり感じていたことを、見事、明瞭な言葉にしてくれました!
先生に先に言われてしまったのが悔しいくらいです(笑)
んーーー…なるほど、すごい。理論的に、知的好奇心がすごい満たされると同時に、どうやって生きていけばいいのか開けてくる感じです。自分も相手も楽になります。まさに中道ですね、これは。
さっすが先生!えらいよ先生!
そういえば、WordPressで記事書くのも慣れてきた感じですね!実は僕も、自分のお寺のHPをWordPressで作り始めたところです!お互いがんばりましょー!
エム先生
あれ、今日の午前中に僕がコメント投稿した内容が消えてしまってます…バグでしょうか(^_^;)
そもそも投稿できてなかったのかしら…
PLさま、あらため、Ryukoさま
ごめんごめん。このコメント欄は承認されると載る形式になっていて、今ようやく見ました。次からは、書き込んだら即載ると思います。
> さっすが先生!えらいよ先生!
おお、ほめられちゃった(笑)
失敗もたくさんしているから、その分、ちょっと賢くなったかな?
> 自分のお寺のHPをWordPressで作り始めたところです!
それはすばらしい!
WordPressは、使い方がよくわかりません。いつもテキトーにやるので,たまたまうまくいくと、どうやってそうなったのかわからなくて困ります。
ともにがんばっていきましょう。