この植物には、オレガノ・ケント・ビューティーという名前がついていました。オレガノというハーブだと思ったら、鑑賞用で食べられません、と書いてありました。
数日前の画像です。剪定(?)してみたら、一気に枯れてしまい、今は見る影もありません。来年、咲くのかなあ。。最初からかさかさのドライフラワーのような感触でしたが、それにしても一気になくなると寂しい。
寂しいと言えば、掲示板がなくなって寂しくなりましたが、実際、わたしも思うところがありました。
それは、因果ということです。
原因があるから結果があることは、みなさんが認めることでしょう。掲示板で言えば、管理するのは、管理人で、掲示板を滞りなく運用していくことを、まずはめざします。
掲示板では思うことを何でも書けるわけではありません。が、ここでは、ある程度、それが許されていました。わたしが、みなさんの書くことを保証し守る覚悟があったからです。あらん、「あった」と過去形ですね。
でも、その思いは、今はなくなりました。だから、今はないのです。自分の発言は自分で守ってください。何を考え、何を書くのも自由だけど、その結果もまた、自分で受けとめてください。それが、ブッダの法だろうと思うのです。
***
まさか、こんなに酷いことは起こらないだろう。というのは、甘い考えだなと思うに至りました。
起こりうることは何でも起こるのです。
生じたものは滅するきまりです、仏教ではね。
今のところ、仏教のきまりどおりになっているように見えます。
生じたものは滅しています。諸行無常です。
有ると言われるものがなくなっていくのも経験します。
滅しおわれば、それはどこにも有りません。無いのです。
無いということに恐怖をおぼえる人は、無くならないように、「永遠」「不滅」「常住」などのことばを無くなってほしくないものに貼り付けます。意識の上だけでも、無くなるという気分を味わうことがないようにするためです。
でも
おごれるものは久しからず、だし、猛き者もついには滅びぬ、だし、はじめがあるものはおわりもあるのです。
「なんだ、あたりまえだろ!」という意見もあることはあります。
なのに、なのに、その「あたりまえのこと」が起こっただけで悲しく苦しいのです。
あらゆる有情(サットヴァ)が知っていることを、口に出して語ったブッダ。
その語り方は、誰も行った事がなかったやり方なのです。
そこで、彼は目覚めた者といわれるようになったのです。
***
目覚めるだけでよい。。朝になったら目覚めるように、夜の闇に怯える者たちは、目覚めなさい。
ほら、朝が来たよ!
コメント
石飛先生、おはようございます。
マニカナ掲示板の閉鎖は私にとってとても残念でした。
投稿で埋め尽くしていたミチオ君は書き込むところがなくなって
私のブログにまで来ました(笑)
自分の行為の結果は自分が受け止めなくてはいけないことが少しはわかったかもしれません。
さて、ひとつ、どうしてもお聞きしておきたい質問があったのです。
それは、法華経安楽行品のことです。
芸人や肉屋に近づいてはならないとか、不男(オカマですかね?)に近づくな、とか、
すべてを受け入れ救おうとする大乗仏教にふさわしくないような気がして
違和感があったのです。
四要品のひとつであることが納得できないでいました。
先生は、この、安楽行品の『交際の範囲』の規定をどのように解釈されていますか?
ショーシャンクさま こんばんは。
掲示板閉鎖は、わたしにとっても、とても残念な結果でした。
な~んと、ミチオ君、ショーシャンクさまのブログにまでお邪魔したのですねぇ。
安楽行品は、わたしには、何となく納得できる章ですね。
というより、もろ、勉強させてもらいました、ショーシャンクさまに感謝!です。
つまり、これは、偉大な士(マハーサットヴァ)ではありますけど、菩薩の心得みたいなことを書いた章として受け止めています。
スカ・ヴィハーラ(安楽の住処)ということですから、菩薩にとっては、修行の場として、どこにいるとスムーズに(=安楽に)行ができるかを考えると、仏教と違う考えの人々に接するのはまずいし、世俗の職業に触れているのも余り良くないだろうということで、結局ひとりで居ることをあげていますね。
ミチオ君と一緒に居ることは、わたしにとって、仏教とは違う考えに接することになるので、離れたようなものだな、って、今!この瞬間、思いました。
掲示板閉鎖の理由については、いろいろ理屈はつけられるのですが、しっくりこなかったのです。
これか、これだったのか、って感じです!
ショーシャンクさまのおかげで「安楽行品」を改めて読むことができ、すご~く納得しました。
渡部照宏氏は、菩薩の心構えを述べた章だとしていて、これは菩薩の戒律に当たると見ています。どんな人とも接して法を説くためには、それなりに修行が必要ということかと納得しました。まだまだ修行がたりないな、となっとくなっとく。
いかがでしょうか。
石飛先生、ありがとうございます。
確かに菩薩は如来への修行の身ですから、菩薩でありながら阿弥陀如来のようにすべての人を救おうとすると知らず知らずに染められて自分をもダメにしてしまうかもしれませんね。
阿弥陀如来も五逆と謗法の者は除いているくらいですから。
菩薩の戒律という解釈は納得です。
そうであれば、今度は交際の範囲を規定して、安楽行掲示板として復活されたらいかがでしょうか。
罵詈雑言をしない、連続投稿しない、挨拶をする、この3つの規定だけで、アラシはいなくなります。
アラシの特徴は、挨拶ができないということだからです。
マニカナ掲示板がなくなったことで、くりさんというマニカナ閲覧者さんもとても悲しがっておられました。
安楽行品のように『交際の範囲』を規定して、復活されることを希望いたします。
ショーシャンクさま こんばんは。
> そうであれば、今度は交際の範囲を規定して、安楽行掲示板として復活されたらいかがでしょうか。
ああ、そんなぁ。。誘惑しないでください。
その気になりそうだいっ!
でも、確かに、「アラシは挨拶ができない」って、ほんとですね。意外と簡単に見わけることができますね。
挨拶をするっていうのは、大切ですねぇ。
そう言えば、経典の中にも比丘どおしまた、お釈迦さまと、良く挨拶を交わしています。経典の中にアラシはいないなあ。
いろいろありがとうございます。
先生、こんにちは😄Blumeです。
こちらにお邪魔してすみません😢
私は先生がもし再度掲示板を作られたとしても、
投稿することはしないとお約束します。
先生に、私のせいで掲示板が壊れたと嘆かれた言葉は、
先生の心の言葉で、我慢の限度を超えた言葉だったのだと、
深く反省しています。
察して欲しいと願われたのに、実際に掲示板が閉鎖されなければ、先生のお気持ちを理解することすら出来なかった自分が心底情けなく感じています。
なのでもし先生が、仏教について、先生の願う、そして先生と共に有意義に語ることを目的とされる方々と再度語り合える場が作られたとしても、
私は絶対に投稿も、閲覧もしないとお約束します。
先生、いろいろすみませんでした💧
先生、そして、manikanaの皆さま、本当にすみませんでした。
これで、終わります。
Blumeさま おひさしぶり。
Blumeさまのせいで掲示板が壊れたんじゃないんですよ。
仏教のお話しは、ありとあらゆるところに及ぶので、Blumeさまも仏教の話題にしっかり乗っていたんですよ。
Blumeさまのテーマは、苦しみかな、いちばん大事な話題です。
やっぱりショーシャンクさまのおっしゃるように、挨拶しないで罵詈雑言を言い放ち連続投稿していたせいかもしれないですね。
掲示板を復活するかどうかは、わからないけど、もし復活したら遠慮しないで書き込んでね。
「 修行 」 が 足りた( 足りていて、 垂れる )人 には
垂れる ( 垂れる ) べき 言葉がある
「 人 」 には 承ける 言葉があり
受ける人 に 対しての ( 垂ららされて 承けた )コト
が 「 修行 」 として 「 経 」 に 示される
承ける 「 人 」 は 承ける場所 に 在らねばならぬ
その場所 に於いて 承けて
その場所 の 起きている 「 世 」 の “ 範疇 ” で
その場所 を 成り立たせている 人 に
( 「 行 」 を 示す ) 「 道 」 を 示す
あくまでも 「 世間 」 に 起こされている 「 行 」 です
「 世間 」 を 観つつ 、 「 世間 」 において
「 世間 」 を 遠離 する
( 遠離 顛倒 夢想 非 一切 )
鳩摩羅什 は 「 菩薩 」 に 顛倒する
「 経 」 は 「 一切 」 を 語っている が
“ 承ける ” ということ は 「 一切 」 に のみ 起きる
ことの端 ではなく 「 金言 」 である
> 渡部照宏氏は、菩薩の心構えを述べた章だとしていて、これは菩薩の戒律に当たると見ています。
戒律 を 平たく 言うと 「 世間 」 を 見つめる と なります
( 「 世間 」 は みつめない という ところに 起きている )
観て 隙間の空いた こころ を
「 心 」 える
心得る べき 言葉を承けて 「 行 」 に しめす
> どんな人とも接して法を説くためには、それなりに修行が必要ということかと納得しました。
> まだまだ修行がたりないな、となっとくなっとく。
納得 の おきる場所( 「 経 」 の 立つところ ) を得て
( そこから 出でて・立ちて )
“ 同時 ” に 起きている
納得 の 起きる場所 から 再度 度を起こす
「 世間 」 に “ 戻り ” 「 道 」 を 示す
・
春間さま 書き込みがなかったので、また入院したのかと心配しました。
> 戒律 を 平たく 言うと 「 世間 」 を 見つめる と なります
> ( 「 世間 」 は みつめない という ところに 起きている )
後半の「世間」について述べたところ、あたってるなと思います。
戒律、とりわけ神的存在からの要請という戒とは違う所にある仏教の戒律について。
神的存在から流れてくる戒律については、それに取りついている専門家、預言者とかその他色々と思いますが、仏教についてはどうなのか?という所が際立っていると思います。
つまり関係性において、私ではない他者が蒙る被害を想定できるか?という所にあるのではないか?
卑近な例をあげれば、SNS投稿に関して。勝手に押しかけて書ける空間においては、自我は最大限に肯定される。だからもし新たに掲示板を作れば、歓迎アラシ様、という展開にしかならないだろう。
アウトプットとインプットという循環についてはそれなりにあるでしょう。
私は新しい掲示板などはゴメンです。ここで得た知見を持って、それぞれが勝手にやればよいのです。それが縁起というものではないのか?という理解ですね。
えび天サンバさま おはようございます。
おお、反対意見だ!
> 私ではない他者が蒙る被害を想定できるか?
これねぇ、誰も想定しませんよね。自分が困ってはじめて気づくんですよね。他人も嫌がっていたのか、って。
それから、他者の存在に気づいていく。
が!
反省しても、「のど元過ぎれば元の木阿弥だろう」ってのも想像できます。
辛口意見ありがとうございます。
同じアブラハムの子孫なのに、対立する人々がいる、ってのも何だなあ、と思う今日この頃。仲良くしろよ。。って。。
みすごしている ミス ・ ミセス 観ず
> > 戒律 を 平たく 言うと 「 世間 」 を 見つめる
と なります
> >( 「 世間 」 は みつめない という
ところに 起きている )
> 後半の「世間」について述べたところ、あたってるなと思います。
「 世間 」 を 見つめる と
起こすべき ( 起こさなければならない )
行ない( 「 行 」 ) が 起きる
( 対象に対応する “律” )
“平たい” 「 人 」 が 建てる 幡( 法幢 )
“平たくない” モノ に 対する 押さえ( 法 ) を
示す ( 「 行 」 の 規範 )
何処 か に 起きている 何か を
そう 名付ける 由縁・なりたち
いづる こ の おこない とは どこに 、、、、
( 示されている 言の葉 ・ 事の端 ・ 中央に置くこと )
起きていても 寝ている者には 不用な こと
の 派 すること
さきにおきて あとにおきる 足あと と 足さき
いづこにむく か を しめす
・
> 書き込みがなかったので、また入院したのかと心配しました。
心配 を 起こすこと に 心配する
( 「 苦 」 を 起こす という 「 苦 」 )
そこにおきている じぶんこと
心肺機能 は 悪くはないけれど
神経叢 に 潜む 水痘ウイルス が 出でてきた
いわゆる 帯状疱疹
心拝 に 欠けるところがあると
身体 に 弱点 を 身 いだす
拝しつつ 智に這う 五体投地
五体( 五蘊 ) を 「 智 」 に 問う・当てて合わせる
床にあって “とこ” を とうべきか を チ と 考える
( 考える 「 智 」 に 知を照らし合わせる )
とこって とこでもない 起きて夢見る そこここ とこそこ
ここんとこ いたみ も う せる
・
> 心肺機能 は 悪くはないけれど
> 神経叢 に 潜む 水痘ウイルス が 出でてきた
> いわゆる 帯状疱疹
帯状疱疹ですか。。それはお気の毒。ありきたりですが、お大事になさってください。
このところ、いろんなウィルスが活発化している印象です。コロナだけでなく、インフルエンザも流行っているというし、わたしもかかったことのあるマイコプラズマ肺炎とか、子どもたちの間に流行る手足口病など。
病から逃れられる道はないようですね。生老病死だからなあ。
ともあれ、暖かくしてお休みください。
「第一の交際範囲」を包みつつ超えて「第二の交際範囲」へ
法華経「安楽行品」には、声門乗や婦女子にも挨拶することもなく
近づかないという「第一の交際範囲」の戒がありますが、「第二の
交際範囲」の戒があることにおいてお許し下さい。
法華経「安楽行品」の「第一の交際範囲」は、法華経(大乗)の方々
に批判される箇所ですが、よくお読みになっていただければ、その
「第一の交際範囲」を包みつつ超えて、空性・無分別の「第二の交際
範囲」があります。
それは、小乗戒を包含しつつ超える〈空の体現〉によって、無分別の
菩薩戒が現成するということで、それは「空体現行戒」ではないので
しょうか。
その「空の体現」をするまでは、小乗戒を認めて、世間に近づかずに
独り「戒定慧の行」に徹せよと法身の釈尊が言っているようです。
「第一の交際範囲の戒」は、世俗から離れて僧院に籠る僧院仏教の戒。
そして、空体現後における無分別平等の「第二の交際範囲の戒」が、
菩薩仏教の戒だと、仮にも自覚しています。
第一の交際範囲の戒=僧院仏教(小乗)戒。
第二の交際範囲の戒=菩薩仏教(大乗)戒。
それにしても、「第一の交際範囲の戒」を守れずに、マニカナに親懇し
てしまったことで、空の体現が遅れてしまったことを反省しています。
その意味で、あの掲示板は閉じて正解だったと思います。
空においては、終りは始まりです。
掲示板の終りから、新たな始まりがあらんことをお祈りいたします。
慧樹さま いちおー、承認しました。
> 空においては、終りは始まりです。
それは無いと思います。空においては、終わりもなく始まりもない、となるでしょう。
しかし、「終わりは始まりです」はまさしく芳和(=慧樹)さまのご意見だと思います。
変わってない、とは思うものの、気づくこともあるかもしれないので承認してみましょう。。
慧樹(芳和)さん。
>第一の交際範囲の戒=僧院仏教(小乗)戒。
>第二の交際範囲の戒=菩薩仏教(大乗)戒。
芳和さんが、上のように考えていることはわかりました。
しかしながら、第一の交際範囲の戒は、僧院仏教(小乗)戒ではあり得ません。
何故かと言えば、
『声聞の乗物を求める僧、尼僧、男女の信者にも、親しみ近づいてはならない。』
『戒律になずみアーガマに頼る者たちを避けよ。』
と書かれているからです。
声聞乗つまり小乗を求める者を避けろという小乗戒はあり得ません。
あくまでも、これは菩薩つまり求法者の交際範囲の戒です。
その上で、なぜ、大乗を求める菩薩(求法者)が、わざわざ、芸人や肉屋や不男などを避けなければならないのか、という問いです。
芸人や肉屋以外にも世俗の職業は沢山あります。
医者も官僚も大工も魚屋もすべて世俗の職業です。
その中でなぜ、芸人や肉屋だけを避けなければいけないのか、という問いです。
芳和さん、どう思いますか?
仏教解説書に依らずに、自分の頭で考え抜いてみてください。
………………
菩薩は、世間と山林を分別するな(復次な観法)
………………
ショーシャンク様のご質問があったのですね。
遅ればせながら、曖昧なる返信させていただきます。
真理とは曖昧なもので、譬喩でないと真実は語らないようですが、
譬喩は取り方によって人を迷せる危険があるようですね。
聖徳太子は『法華経』安楽品の安楽行の一節「常に坐禅を好み、
静かなる処に在りて、その心を摂むることを修え」について、
『法華義書』において、次のように説いています。
「言うこころは顚倒分別の心有るに由るがゆえに、此を捨てて彼の
山間に起きて常に坐禅を好むなり。然らば即ち暇ありてか、此の
『経』を世間に弘通することをえん」
聖徳太子は、「世間と山林を分ける考え方が間違っている」と私に
は読めます。
その二項分別か無分別かで言えば、
世間と出世間を二つに分けるのが小乗。
世間と出世間を二つに分けないのが大乗。
而して、林に入り世間を捨ててだけではなく、復次(両方行的)に、
「一切法は、空なり、如実の相なり、顚倒ならず、動ぜず、退せず、
転ぜず、虚空の如くして所有の性無く、一切の語言の道断え、生ぜ
ず滅せず、出でず、起らず、名無く、相無く、実に所有なく、無量
・無辺・無礙・無障なちと観ぜよ。但、因縁をもって有るのみ、
顚倒によって生ずるが故に常・楽と説くなり。かくの如きの法相を
観ずる、これを菩薩・摩訶薩の第二の親近処と名づくなり」と。
まるで『般若心経』です。
禅定としてのい『般若心経』を唱えている身として、身洗苦行は、
「一切の語言の道断」に至るための譬喩と受け止めています。
復次的に、「両方向的に世間を観ぜられる者に為れ」というブッダ
言葉と受けて止めています。
先生にはご承認いただけませんが、
出でず、起らず――始めと終わりの無分別――今しか無い。
修行と悟りは同じだ。
今の足元を大切にしたいと思います。
論理的には曖昧のままで失礼しました。
↑
どのような行ない に 対しても
“ 気付き ” は 起こすことが出来ますが
( 正しい 「 行 」 )
誤った 行ない に 対して ( 正しくない 「 行 」
誤った 気付き を 起こすことが ほとんど です
誤った こと ( 「 認識 」 ) で 作り上げられている のが
「 世間 」 です
それに対して 「 世間虚仮 」 と 説き
「 唯仏是真 」 と 道をしめします
維摩 によって 示されている 結麻羅 という 結び目
「 直心是道場 」 の
「 道場 」 とは
菩薩の歩む道 であり
「 直心 」 とは
菩提心 です
「 菩薩 」 に 道標 を 示し
「 菩薩 」 のみ 表される 意味を読み取ります
発菩提 が 標を見出す 「 燈 」 であり
その 「 あかり 」 の 明り方
に 三つ( 密 )が あります
戒 ・ 定 「 慧 」 という “ 維 ” 一 です
結ばれてある 紐解くこと を 「 密 」 と 呼びます
戒 に 起きる 定
その ジョウ( 常 ) に( のみ )起きる 「 慧 」
( 「 慧 」 を “ 知 ” で “ 量る ” と
“ 知 ” の 「 常住 」 が起き
「 顛倒 」 が 開かれて行く )
「 発菩提 」 が 暗き道 を 照らす
「 発菩提 」 を “ 知 ” で 図る(量る)
あなたも 例外・劣解 なきように
( という 「 戒 」 )
回するごとに 積もる “ 例 ”
例 害 を 知ると
“ いちおー 承認 ” という
世間上 の 承認 から 離れ得る
“ 害 ” というモノ を
“ たいがいこうだ ” と あなどってはいけない
害 だと 知らぬ そのことの 積み重ね が
「 世間 」 の 常( 「 常住 」 )
道標 を 建てる ( 「 共建法幢 」 )
・
> それに対して 「 世間虚仮 」 と 説き
> 「 唯仏是真 」 と 道をしめします
この意味わかったよ💡
西洋論理の言い方では、必ずパラドックスに至ることを言う。
だから、西哲ではパラドックスが蔓延しています。
だけど、ブッダにだけはパラドックスは起こらない。。。
諸行無常だからね、諸法無我だし。。文字通りだって、龍樹のおかげで気がついた。
> “ 害 ” というモノ を
> “ たいがいこうだ ” と あなどってはいけない
完全にあなどってました。
誤りに気づいて、瞬間! 掲示板閉鎖しました のじゃ。。愚かなるは、われ。
現状を包含しつつ超えて行く
「朝だよ、生まれ直そう」という『般若心経』を読誦する者の仮の見解
を、仮にもご承認していただき、ありがとうございます。
一つの道を真直ぐ行けば、必ず絶望が待ち受け、その絶望を何度となく
乗り超えた仕事人たちによって私たちは生かされている。
刹那生滅(不生不滅)という「終りからの始まり」は、絶望に負けずに、
常に初心に帰り、絶望を超えて行くという「ゴム毬の生き方」だと仮説
しまして、その実証に精進しています。私だけの仮の生き方ですが。
『法華経』は百回読誦し、自己の現状を知れば「観世音菩薩普門品」が
臆病者には向いていると、普門品に生きています。その普門品の背後に、
全仏教が含有していました。
観音の一心称名行の背後に、「安楽行品」の〈身の安楽行〉〈口の安楽行〉
〈意の安楽行〉〈誓願の安楽行〉があります。
「身の安楽行」において、差別が説かれていますが、それは、古代インド
の差別を、ダメだと排除するのではなく、「現状を包含しつつ超える道」を
説いていると誤読(仮説)しています。
何度となく絶望を繰り返しながら、近頃どうにか、包含力という大悲が
現成してきたようです。
老後初心(菩提心)忘れるべからず(世阿弥)。
一発初菩提心を百千万発するなり(道元)。
鶏となって時を告げよ(荘子)。
歴史という先祖の善き生き方からも学ぶべきものがあります。
*
> 後半の「世間」について述べたところ、あたってるなと思います。
前半 は 如来寿量品 を “読めば” 領解できます
中間 の 「 一切 」 について は
( 当たっていない ・ わけがわからない などと思わず 、、、、 )
下記 参照してみてください
四、玄奘並びに羅什による『般若心経』の両訳の比較並立
https://www.chibs.edu.tw/ch_html/chbj/18/chbj1809.htm#div4
それに伴い 以下
p. 344
渡辺氏の研究分析によれば、 ・・・・
なども 興味深いところです
渡部本 を 読み返しては いかがですか ?
*
> 渡部本 を 読み返しては いかがですか ?
渡辺本かな?
読み返してみます。、、時間がかかるのできっとなかなか進まないと思うけど。