田を耕す

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コスモスが二輪だけ咲いている。よく見ると、つぼみはいくつもある。これから咲くかもしれない。お布施のコスモス(秩序)について語ってみよう。

数少ない花だから、今回はこれを味わってみたい。。

春間さまにコメントでも書いたけど、『スッタニパータ』の「田を耕すバーラドヴァージャ」という経典について あらためてお話ししてみます。

第1章4 耕作するバーラドヴァージャ経

一粒で4度美味しい経典 と名づけたい。経典の最後の方に、こんな定型句があるね。

(1)倒れた者を起こすように、(2)覆われたものを開くように、(3)道に迷った者に告げ教えるように、(4)『眼あるものは色形を見るだろう』として、暗闇で灯火を差し出すように、そのように、友、ゴータマは、様々な方法で法を明らかにしました。

4つの喩えがあって、それだけのことをバーラドヴァージャは得たということだから、ブッダから何を学んだのか検証してみよう。

(1)倒れた者を起こすように

バーラドヴァージャは、お布施の列に並んだ沙門ゴータマを見て、バラモンじゃないらしいと知って、「おまえも耕して食べろ(=お布施はやらないよ)」と言います。

ブッダは、わたしも「耕して食べている」と答え、驚いたバーラドヴァージャが詩の形で「どういうことか」と尋ねると、バーラドヴァージャにこう答えるのです。

信仰がたねです。鍛錬(苦行)が雨です。智慧がわたしのくびきと鋤です。(内面の恥)が轅(ながえ)です。が紐です。気づきは、わたしの鋤先と棒です」と答えるのです。

見事な答えに感服したバーラドヴァージャは、お布施をささげようとしますが、今度はブッダが受けとりません。

なんかブッダ、バーラドヴァージャに意地悪しているのかなと思ったあなた。違いますっ!

2)覆われたものを開くように

ブッダは、そのわけをこう言います。働いて報酬を得て生活するのは一般の人々(凡夫)です。

今あなたは詩を唱えて尋ねましたね。それは、報酬を得る行為と同じになる。

だから、聖者は受けとれないのです。聖者は働いて報酬を得ているわけではないから、返事は同じ詩の形で返すのです。

(3)道に迷った者に告げ教えるように

ブッダは布施のお粥についてこう言います。「こ(のお布施の粥)は誰も消化できないから、草のないところに捨てるか、虫のいない水の中に沈めなさい」と。バーラドヴァージャが水の中に静めると、湯けむりが上がり熱を帯びているかのようでした。聖者に行きそびれた布施のお粥は、もはや、たんなる物質ではなく、聖なるものになったのかも。。

(4)『眼あるものは色形を見るだろう』として、暗闇で灯火を差し出すように

ブッダみずからが聖者であることをバーラドヴァージャに示し、そして詩の形で答えます。(これは、詩で聞かれているから詩で答えないとね。そうしないと報酬を受けとる行為になってしまうから)

ブッダは言います。

82 完全なる偉大な仙人であり、煩悩を滅尽し、悪しき行為が静まった人には、他の飲食物で奉仕しなさい。というのは、これは、功徳を期待するものの(福の)田であるから。

もしあなたが、お布施の効果をねらうなら、聖者にお布施をしなさいよ、と告げています。聖者は「福田」と呼ばれ、いくらでも功徳をもたらす存在であるから。煩悩を滅尽した聖者には、めったに出会えないことも知られてくるでしょう。

そして、聖者は、布施のみによって生かされる存在なのです。報酬を得て食べているわけではないことが知られます。ブッダみずからが、身をもって、バーラドヴァージャに教えたのです。

聖者も凡夫も耕して食べるものであり、さらには、聖者と凡夫の違いを明確にして、聖者は凡夫のお布施に縁って生かされる存在であることを告げたのです。凡夫は功徳を期待するのであれば、聖者にお布施をするとよい、と知られます。

ブッダは、自慢気に、自己を語るわけではありませんが、いかに努力して聖者になったのかが自然と知られて行くようになっています。一般の人である凡夫の中に、聖者とはどういう存在かが沁みていき、この聖者を生かすのはわたしたちなんだという使命感のようなものすらわき起こることでしょう。

聖者を大切にしないと、二度とこのような教えは得られないと思ったバーラドヴァージャは、お布施をささげる凡夫の道から、ブッダのような聖者になる道を歩みはじめるのです。

この経典は、一つ読めば、布施の対象(ここでは粥)、布施をする人(バーラドヴァージャ)、布施をすること、という布施に関することすべてが分かるようになっています。大乗から部派まで全部を覆い尽くして成りたつ教えです。

すごい経典だと思って、いつも、圧倒されちゃうわ。

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