青じそが群落化してしまった。
といっても、二株なんだけど。さしみのつまには、葉がかたい。花のところは天ぷらになるらしいけど、香りが飛んでしまう。だから、ただ鑑賞してください。
「適当」の意味を「テキトー」に変換したら、意見が来ました。
マンガことばを使うのは、どーなんだ、って。
そこで、わたしはどーしてマンガことばを使ったのか、考えて、コメントでこう書いたのです。
わたしの「テキトー」の使い方ですが、
使う前は文字通り「ピタッと適う」ようにしたいと本来の意味をねらっています。
使う真っ只中では、ことばの意味を追い求めることはやめていて、行為に集中しています。
使い終わった後では、合っているのかどうかわからないので、「適当」を変換して「テキトー」にして使ってます。
この「適当」ということば、自分の力だけではないと思う。自分の力だけで「適当」の意の通りになるのなら、カタカナ書きにはしなかった!のです。
ある結果をねらってある行為を行うことは、誰にでもあることです。(チャットGPTにはないかもしれないけど。)
その時、期待した効果が得られるとは限らないので、できるだけそうしたいと願うなら、神仏に祈る、供養する、お布施する、などの行為も追加します。
「八冠達成したいけど無理かもしれない」「優勝したいけどダメかもしれない」などなどのいろんな思いを抱いて、人は行為をします。
自分の努力(=自力)と他者の協力(=他力)に賭けるのです。自他共にそう願うなら、達成できそう、って思うのでしょうね。
仏教は、ここで非情な決断を下します。自分の力も他人の力もあるわけではない、のである。空(くう)である、と。
自分の努力だけではない、というのはわかります。相手だって、「自分の努力」をしているのですから。
他人の協力だけではない、というのも、わかります。自分でやらないで、なんで他人をアテにするんだよ、っていわれちゃう。
それでは、自分の力と他人の協力が合わされば、鬼に金棒、ってことになるのが、ふつうだけど、それも、なんか違う。勝負の世界では、自他の力をたのみにするのは当然だから、対戦相手も同じことをしてくるのです。
振り出しに戻ったね。そこで、自他の力をたのみにしない道、勝負だと思わず無心の境地でやろうという、第4の道が出てくる。これを「中道」っていうんだね。お釈迦さまの奨めるやり方、でもある。
…だけど、中道を行くうち、ある思いがわきあがる。
極端によらない、っていっても、勝負に勝ちたい思いがあるから、勝つ手段として、勝ち負けを超えた道を歩むんだ、となるならば、結局、勝ち負けにこだわってるだけじゃん。
…勝っても負けてもよければ、平和っちゃ平和だな。。こうして解脱する。
勝負を諦めきれない人々と、勝負から解脱した人とが、この世界には住んでいる。
勝負に熱中する人も、勝負から解脱した人も、その途上にいる人々も、みんなが幸せに生きるために、仏教がある。「空」がある。
本来それ自身の性質として、「自分の力」も「他人の力」もあるわけではない、自性に関して空(くう)である、と。
空を手に入れると、こだわっていた自分自身がなくなる。あるともないとも言えなくなる。
空を手に入れると。自在である。仮に勝ちたいと思うこともできる。勝ち負けはいいや、と思うこともできる。勝負から身を引くこともできる。
ありとあらゆることが可能になって来る。可能と不可能を知るからである。
こうして、ブッダはいう。
「世界を空なるものとして観察しなさい。モーガラージャンよ、常に気づきをもって、自己をともなう見解を除いて、このように、死を渡っていくとよいでしょう。このように、世界を観察している者を、死王は見ないのです」(『スッタニパータ』第5章「彼岸道品」第1119偈)
そうだ、書き忘れてた。芳和(慧樹)さま、アラス目的でここに書き込まないでね。アラスというのは、ことば遊びをすることです。
コメント
> アラス目的でここに書き込まないでね。
> アラスというのは、ことば遊びをすることです。
ことば遊び ではない と
言葉に遊ぶ
遊んでいるわけじゃない と 遊び事 を 言う
人生 を 玩ぶ ( おもちゃに 真剣に惑う )
ひとごと とは 人の生き様 を 自分事とできないこと
ひとこと だけ 言いたいけれど
自分事 と ならず ( 他人事 ではないのに 、、、、)
他人に とやかく言う前に 自分事として 己事を 読む
「 己事究明 」 も
ジヅラ ( じずら ・ 字面 ) に
顕われ 出ていること
おなじ もじ
たがう 意味
音 かわらず といえども アヴァラキタスバラ
安穏 たる おもい
>そうだ、書き忘れてた。芳和(慧樹)さま、アラス目的でここに書き込まないでね。アラスというのは、ことば遊びをすることです。
なるほどと思ったけど、最後の、言葉遊び、で引っ掛かりました。哲学思想(西哲)は99%自我を前提にしているので、最近読んだ哲学者だとかの本はすべて自己正当化の話なんだなあ、私の話もそれに含まれていたなあ、としみじみと感じ入った次第。
自画といい自己といい、文脈が違うのみで、主体や本質を建てるお話は全て同型になってしまう。
えび天サンバさま こんばんは。
> なるほどと思ったけど、最後の、言葉遊び、で引っ掛かりました。
わたしもです。どうしても自分が出てしまう。。
まあ、でも「自己正当化の話」とおっしゃるのはあたっているなと思いながら拝読。
ブッダや龍樹も「寂静・寂滅を説いた」っていわれます。
煩悩ある者たちに向けて、かれらに合わせて、まるで自己があるかのようにも語ります。
「時間がきたら黙る」ということを教えただけとも言えるのですが、そこを理解するのにわれら凡夫は四苦八苦してしまう。
> 主体や本質を建てるお話は全て同型になってしまう。
結局のところ、掲示板やめた理由も、ここに尽きるかな。
時間がきたら(=話し終わったら)黙ることを教えたブッダは立派です。
マニカナ先生がmaniということは
マニカナプトラさんはマーニプッタさんでいいということですね!
一気に智慧者らしい響きに
親孝行はモーガラージャンじゃなくてモッガラーナか
毒箭経以外はテキトーでいいんじゃないかとw
カエルさま こんばんは。
マーニプッタになった息子です(笑)
発作から徐々に復帰してきました。7-8割は回復してきたかな。
このマニは、もとはチンターマニのマニで、訳すと「如意宝珠」の意味をもっています。
「何でも願いを叶えてくれる球」ということですね。
マニカナ先生、こんにちは
>如意宝珠
ドラゴンボールですね!7つあつめてマーニプッタ復活を神龍に願うw
如意輪観音か如意宝菩薩なら回数制限なしの神龍のようなものですよね
まずはウクライナとガザに平和を願おう。
神龍でも無理かな
あそこいらの神様はわりと簡単に生き物を虐殺するキャラですからねぇ
ドラゴンボールかあ。
如意宝珠と聞くと、ドラゴンボールが浮かぶなんて、なんて現代ガエルなんでしょ。
宝珠さまさま、ウクライナとガザの平和はぜひともお願いしたい、いますぐ!
「南に行け」は、かつてのアッシリアや新バビロニアのように、強制移住を命じた、あの発想なのかなあと思ってしまう。。
時により過ぎれば民の嘆きなり。。ですよ。
マニカナ先生、こんばんは
ドラゴンボールをはじめ漫画って「主人公」中心の世界じゃないですか
子供だましでわりと関心の対象外(嫌いとは言わないw)
この現実世界には「主人公」はいないですよね
諸法無我ってそういうことではないですかね?
欧米のエゴイズム、インドのアートマン思想って「主人公」に近いですよね
自分が世界の中心ではないということをなかなか受け入れられない
地動説がなかなか受け入れられないのといっしょ
自分が明日交通事故で犬死してもおかしくない雑魚キャラではあるが
それに気づくと雑魚キャラであることがどうでもよくなるw
> ドラゴンボールをはじめ漫画って「主人公」中心の世界じゃないですか
主人公のいないお話しはないですからねぇ。
ううむ、わたしも意見を言いたくなってきたぞ。
というのは「主人公」を立てると、作者が主人公に肩入れしてしまうので、最初は悪キャラでも、どんどん良いキャラになっていって、良いとおもしろくないので、脇キャラにスポットライトが当たり始める。
で、脇キャラが魅力的に描かれはじめ、元の主人公はすっかり出番がなくなって脇キャラになる。
このような話しの展開もけっこうみるよね。『鉄拳チンミ』とか、そうかな。。
> 欧米のエゴイズム、インドのアートマン思想って「主人公」に近いですよね
それが、そうでもないような。インドのアートマンは、西洋のエゴイズムとちょっと違って、因果関係を受け容れているので、仏教的な要素も持っていて、キャラが立たない(目立ちすぎない)
『マハーバーラタ』とか、その都度メインのキャラはいるけど、善悪が明瞭ではない。パーンドゥの息子たちの五王子とクルの百王子との戦いでも、何とか五王子は勝利するとはいえ、めでたしめでたしではない。
日のあたる時もあれば、日のささない時もあって、人生が出来上がっている。。って感じかなあ。
アートマン思想って、それ自体は「エゴ」という感じではないものも多いんだけど、仏教と比べちゃうと「濁り」とか「汚れ」みたいなのが出ますね。
>仏教と比べちゃうと「濁り」とか「汚れ」みたいなのが出ますね。
釈尊の思想は座標軸になるのですよね
X軸、Y軸の0ゼロに釈尊をおくと他の宗教や哲学がわかりやすく配列される
さらに釈尊も相対化すると筏を捨てることができる
> X軸、Y軸の0ゼロに釈尊をおくと他の宗教や哲学がわかりやすく配列される
お!すごおぉぉぉい、わたしは何年もかかって知ったのに、カエルさま、さすが!智慧のカエルだわ。
空=0という学説を本に書いた学者もいましたね。山折だったかな。
座標軸というのはエム先生の論理表と同じですね。確かにそれがあれば役に立つ
とは言えそう。自我煩悩貪欲が旺盛であればあるほど、それが抑制装置になるからね。
> 空=0という学説を本に書いた学者もいましたね。山折だったかな。
わたしも書いたことあります。シューニヤから来るんでしょうね。ニフスヴァバーヴァ(自性を欠いていること)をもってこないとならなくなるけど、そうすると、多くの人が反発します。
「もともと自性(そのもの自身)はない」と言われて、「そうですね」と相手はなかなか言えないです。
「どう見ても『りんご』にしか見えないのに、りんごじゃない、って言うのかよ」ってことになってしまう。
誰かもったいぶって、「言語を解体した」なんていう意見も出てくるけど、これもわからん話しです。「解体?言語、使えているじゃん」ってなる。
だけど、ここに思考の罠がひそんでいることに気がつく人は幸いです。
仏教では気づいた!
言語を便利に使って、こだわることなく、そこから離れる道を模索しはじめた。
「こだわらないこと」=「ゼロ(0)」
としたと考えると、ようやくつじつまが合ってきます。
「りんごはりんごではない、だから、りんごである」というのも、「りんご」「りんご」とこだわるな、ってことだよね。
いつも、思索に満ちた辛口意見をありがとうございます。
マニカナ先生、こんばんわ
釈尊を出汁にしてロゴスの裏側に肉薄してすごい
F、T以外にもブランク(空)や未定(シュレーディンガーの猫)もありそうw
ブランクや未定があるからFやTが際立つわけで
釈尊を筏にして、ロゴス、ダルマ、タオに接近する
カエルさま
「今こそ日本国民に問う」とぶちあげてみる(チコちゃん風)
十二支縁起の一々は界(ダートゥ)と言われるけど、それは「語り」の領域を示している。
数学が科学の言語であるように、仏教は生死の問題に関わる言語である、ってのはいかがかな。
> 釈尊を筏にして、ロゴス、ダルマ、タオに接近する
釈尊を筏にして、ロゴス、ダルマ、タオを渡る、ってのはどう?
または、
釈尊を筏にして、ロゴス、ダルマ、タオを超える、ってのもいいかなあ?