日々草の種を植えて、育てました。(間違えた。ヒャクニチソウでした。)
というより勝手に育って花を咲かせています。自力で育ってくれてうれしいぞ、っと。
手前の黄色い花は、カレンデュラ(きんせんか)、これも種を取っては翌年にまくと、またでて来ます。『ダンマパダ』の中で、ブッダが言っていた。
283 林を切りなさい、一本の木だけではなく。林から畏れが生ずる。(欲の)林とその下生えとを切って、林なき(欲なき)者(ニッバナ)となりなさい。比丘たちよ。
ニッバナ(林なき者)とニッバーナ(涅槃)とをかけている。
356 田畑は雑草によって荒らされ、この世の人々は貪欲によってそこなわれる。
それゆえに、貪欲を離れた人々に与えることは、大きな果となる。
「与える」とは供養することかな。お布施をささげることかな。欲のままに生きるなということがうたわれている。
たとえ、貪欲を持っていても、
貪欲を離れた聖者にお布施をすることにより、聖者に身近に接して供養することにより、
そのお布施した人は、次第に浄められていく。
「真似でもいいからしてみなさい」と、ブッダはわたしたちに言っているようだ。
だけど、欲の下生えが芽吹くと、どんなことも欲得ずくになってしまう。
打算的に来世の幸運を得ようと、見返りの欲でお布施をする人もいる。
ブッダのことばは、自分の行いとしてわが身に引き寄せて考えないと意味が出ない。
ブッダのことばは、味わって、よく噛み嚼みして飲み込まないと消化しにくい。
打算で割り切らず、味わうべしね。ブッダ味の滋味を!
コメント
> ニッバナ(林なき者)とニッバーナ(涅槃)とをかけている。
林 を 過ぎれば 平地 が 開ける
平地 を 放置
「 耕 」 するところ 草地 とも なる
平地 開き 坐し 「 苦 」 さる 「 智 」 に至る
> 田畑は雑草によって荒らされ、この世の人々は貪欲によってそこなわれる
耕し そこ で 得た 施物 を 施 与 と しる
「 食 」 という 世物 を 諸苦 と せず
貪 を離れ ヨク ヨク しる 施 世 の すがた
> 欲の下生えが芽吹くと、どんなことも欲得ずくになってしまう。
“ 欲 ” が なければ
マケル 種 も なし
( マク する ところ に 巻かれて 廻る )
マク を とじると 闇が開く ( 勝 劇 は 終わる )
やみなん やみなん また ひらく 幕
・
木が育つ要因は多数
庭に花を植えている
小さな種から大きく育つと
種の生命力に驚かされる
でも、天候や土壌という環境に左右され
また、育てる人にも左右される
草木も環境とつながり育つ要因も多数
人間も環境に人に多数の要因に生かされているようだ
自力だけでは生きられない
> 人間も環境に人に多数の要因に生かされているようだ
> 自力だけでは生きられない
「多数の要因に生かされる」…そのことを、ブッダは縁起と称した。
不思議だなあ、不思議じゃないようにも思えるところが、いっそう不思議です。
> 貪 を離れ ヨク ヨク しる 施 世 の すがた
書くと簡単なのに、なかなか貪から離れられない 施世の姿。
そうかと思うと、いとも簡単に 貪を離れたりも できる
凡夫は不思議な生き物。。この不思議さに賭けててみる
賭け事はよろしくないんだけどね。凡夫だからね。
欲の下生えを刈り取ることは難しい。
だからあの世に行く前にはまとめて刈り取って、
ブッダにお供えするとしよう。
雑草という草はないのだそうですが、欲の下生えという雑草は至るところに生えてくる。
これには除草剤も効かない。
ブッダにお供えするのはよい手かもしれない。
草は棄嫌におふるのみ なり( 形・名色・識 )
“ 揀択 ” を 廃する ( 嫌 を 開く )
おふる そのところ を 賢択 する↑