心にしみる原始仏典


「旅に病む―ヴェールヴァ村にて」『ディーガ・ニカーヤ』第16経「大般涅槃経」2.21-26(PTS Text,DN.Vol.2,pp.98-101.)
漢訳:「遊行経」九五経(『大正蔵』一、一一上〜三〇中)


第2章 9.ヴェールヴァ村

(21) さて、尊師は、アンバパーリーの林に心ゆくまでとどまったのち、尊者アーナンダに話しかけました。
「さあ、行こう。アーナンダよ、ヴェールヴァ村に行こう」
「そういたしましょう、尊師よ」と、尊者アーナンダは尊師に答えました。
 さて、尊師は、比丘の大集団とともにヴェールヴァ村に入りました。そこで、尊師は実際にヴェールヴァ村に滞在しました。そこにおいて、尊師は比丘たちに呼びかけました。

(22)「さあ、おまえたち比丘よ、ヴェーサーリーのどこでも、友人にたより、知人にたより、同僚にたよって、雨安居に入りなさい。わたしもまたここヴェールヴァ村で雨安居に入ることにしよう」
「そういたします、尊師よ」と、かれら比丘たちは尊師に答えて、ヴェーサーリーのあちこちで、友にたより、知人にたより、同僚にたよって雨安居に入りました。尊師もまたそこヴェールヴァ村で雨安居に入りました。

(23) さて、雨安居に入った尊師に、激しい病が生じました。死ぬほどの激しい痛みが起こりました。しかし、尊師はそれらに気づきをもってよく意識して、悩まされることなく堪え忍んでいました。その時、尊師は、このように思いました。―― 「わたしが侍者たちに何も告げることなく、比丘の集団に注意を呼びかけずに、般涅槃することは、わたしにとってふさわしいことではない。わたしは、この病を勇気をもっておいやり、寿命の潜在的な力(ジーヴィタ・サンカーラ)※をとどめて住することにしよう」と。
さて、尊師は、病を勇気をもっておいやり、寿命の潜在的な力(ジーヴィタ・サンカーラ)をとどめて住していました。すると、尊師の病は、安らかになりました。
※寿命の潜在的な力:寿命を保とうという意志の力

(24) さて、尊師は病から癒えました。病から癒えて間もなく、精舎から出て、精舎の日陰に設えられた坐に坐りました。その時、尊者アーナンダは、尊師のところに近づいていきました。近づいて尊師に敬礼して一方の隅に坐りました。一方の隅に坐った尊者アーナンダは尊師にこのように言いました。――
「尊師よ、尊師は安らかであるようにお見受けします。尊師よ、尊師はだいぶ善くなってこられたようにお見受けします。尊師よ、しかし、わたしの身体は酒に酔ったようです。どの方角も、わたしにはわかりません。諸法も、わたしは明らかではありません、尊師の病のためにです。しかし、尊師よ、わたしには何か安らかな部分もありました。――『尊師は、比丘の集団に関して何かを述べないかぎりは尊師は般涅槃されないだろう』と」

(25) 「アーナンダよ、比丘の集団がわたしに一体何を望むというのかね? アーナンダよ、法は、内もなく外もなく為したのち、わたしによって説かれたのだよ。アーナンダよ、如来の諸法の中には師の握り拳は存在していない。アーナンダよ、『わたしは比丘集団を守ろう』とか『比丘集団は、わたしを教授者としている』と、アーナンダよ、思う者ならば、比丘の集団に関して何事かを述べることもあるだろう、だが、アーナンダよ、如来にとっては、このようなことはない。『わたしは、比丘の集団を守るだろう』とか『比丘集団がわたしを教授者としている』とか、そのようなことはない。だから、アーナンダよ、どうして如来が比丘の集団に関して何かを述べるだろうか。
アーナンダよ、わたしは、老いて年寄り、老齢になり、晩年になって、高齢に達した。わたしの齢は八十になった。アーナンダよ、古びた車が革紐で補強しながらやっと行くように、そのように、アーナンダよ、たしかに如来の身体も革紐で補強しながらやっともっているのだ。アーナンダよ、だが、如来が、一切の特相に注意を向けることなく一部の感受を滅することによって、無相心三昧に到達して住している時には、アーナンダよ、如来の身体はいっそう安楽なのである。

(26) それ故に、アーナンダよ、この世において自らを中洲として住みなさい。自らをよりどころとして他をよりどころとすることなく、法を中洲とし法をよりどころとして他をよりどころとすることなく(住みなさい)。では、アーナンダよ、どうして比丘は自己を中洲とし自己をよりどころとし他をよりどころとすることなく、法を中洲として法をよりどころとして他によりどころとせずに住まいするのか?

アーナンダよ、ここにおいて、比丘は身体において身体を随観して住まいする。熱心に正しく意識して気づいており、世間にある貪欲や憂悩を制御するだろう。
感受において感受を随観して住まいする。熱心に正しく意識して気づいており、世間にある貪欲や憂悩を制御するだろう。
心において心を随観して住まいする。熱心に正しく意識して気づいており、世間にある貪欲や憂悩を制御するだろう。
法において法を随観して住まいする。熱心に正しく意識して気づいており、世間にある貪欲や憂悩を制御するだろう。
このように、アーナンダよ、比丘は自己を中洲として住むだろう。自己をよりどころとして他をよりどころとすることなく、法を中洲として、法をよりどころとし他をよりどころとすることなく(住まいするだろう)。アーナンダよ、今でも、また、わたしの死後でも、自己を中洲とし自己をよりどころとして他をよりどころとすることなく、法を中洲とし法をよりどころとして他をよりどころとすることなく住まいする者はどのような比丘も、アーナンダよ、わたしによって、この思索の最高点にいるだろう。誰でも学ぼうと望むならばであるが。」


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