『サンユッタ・ニカーヤ』12.70(PTS Text,Vol.II,pp.119-128) スシーマ 1 あるとき、尊師は、ラージャガハのヴェールヴァナなる栗鼠養餌所に滞在していました。 2 そのとき、尊師は、恭敬され、尊重され、尊敬され、供養され、崇拝されて、衣服・飲食・臥坐具・病薬資具を得ていました。 3 比丘教団もまた、恭敬され、尊重され、尊敬され、供養され、崇拝されて、衣服・飲食・臥坐具・病薬資具を得ていました。 4 ところが、異学の遊行者たちは、恭敬されず、尊重されず、尊敬されず、供養されず、崇拝されずにいて、衣服・飲食・臥坐具・病薬資具を得てはいませんでした。 5 さて、その頃、スシーマという遊行者は、多くの遊行者の会衆とともにラージャガハに住んでいました。 6 その時、遊行者スシーマの会衆は、遊行者スシーマに、このように言いました。 「友スシーマよ、おまえは、行って、沙門ゴータマのもとで清浄行をしてこい。おまえが法を完全に学んで、われらに教えてくれるならば、われらは、その法を完全に学んで、在家の者たちに説いてやろう。こうすれば、われらもまた、恭敬され、尊重され、尊敬され、供養され、崇拝されて、衣服・飲食・臥坐具・病薬資具を得ることができるだろう」 7 「友よ、そうしよう」と、遊行者スシーマは、自分の会衆に同意して、尊者アーナンダのところに近づいていきました。近づいて、尊者アーナンダと挨拶を交わし、親しみのある礼儀のこもったことばを交わして、一方の隅に座りました。 8 一方の隅に座った遊行者スシーマは、尊者アーナンダに、このように言いました。 「友アーナンダよ、わたしは、この法と律において清浄行を行じたいのです」 9 そこで、尊者アーナンダは、遊行者スシーマをつれて尊師のところに赴きました。赴いて、尊師に挨拶をして、一方の隅に座りました。 10 一方の隅に座った尊者アーナンダは、尊師に、このように言いました。 「尊師よ、この遊行者スシーマは、このように述べました。『友アーナンダよ、わたしは、この法と律において清浄行を行じたいのです』と」 11 「そうであれば、アーナンダよ、スシーマを出家させてやりなさい」 12 遊行者スシーマは、尊師の面前で出家することを得、受戒することを得ました。 13 その時、ちょうど、多くの比丘たちが、尊師の面前で完全智に達したことを明らかにしているところでした。「『滅尽したのは、生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられ、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない』とわたしたちは知ります」 14 その時、尊者スシーマは、それを聞きました。すなわち、多くの比丘たちが、尊師の面前で、完全智に達したことを明らかにし、『滅尽したのは生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられて、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない』とわたしたちは知ります」と述べているのを。 15 そこで、尊者スシーマは、比丘たちに近づきました。近づいて、かれら比丘たちと挨拶を交わしました。親しみのある礼儀のこもったことばを交わして、一方の隅に坐りました。 16 一方の隅に座った尊者スシーマは、かれら比丘たちに、こう言いました。 「尊者たちが、尊師の面前で『滅尽したのは、生まれることである。完成したのは清浄行である。為すべきことは為し遂げられ、もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない』とわたしたちは知ります、と答えているのを聞きましたが、それは、本当ですか」 「本当です、友よ」 17 「それなら、あなた方尊者は、このように知って、このように見て、種々の~変を経験するのですか。 つまり、一つになった後多になったり、多になった後一つになったりするのですか、 また、現れたり隠れたりできるのだろうか。壁や城壁や山を、虚空を行くように、すり抜けて行けるのですか、 また、地において、水のように、浮かんだり潜ったりができたり、また、水において、地のように、沈まずに行けたりするのですか。 また、虚空において、翼ある鳥のように、座ったまま行くことができるのでしょうか、 また、かくも威~力のある、かくも大~力ある、これら月や太陽を、手でつかんだり触れたりできるのですか。 また、梵天界にまでも、身体によって自在力を行使できるのですか」 「いや、友よ、そのようなことはありません」 18 「それでは、あなた方尊者は、このように知って、このように見て、人間を超えた清らかな神の聴覚の要素によって、遠くであれ近くであれ、神と人間にかんする両方の声を聞くことができるのですか」 「いや、友よ、そのようなことはありません」 19 「それでは、あなた方尊者は、このように知って、このように見て、心をもって、他の生き物や他の人々の心を知ることができるのでしょうか。 たとえば、貪欲のある心を、貪欲のある心であると知り、貪欲を離れた心を貪欲を離れた心であると知り、怒りのある心を怒りのある心であると知り、怒りを離れた心を怒りを離れた心であると知り、痴ある心を痴ある心であると知り、痴を離れた心を痴を離れた心であると知るでしょうか。 統一した心を統一した心であると知り、散乱した心を散乱した心であると知り、広大なる心を広大なる心であると知り、狭小なる心を狭小なる心であると知り、さらに上がある心をさらに上がある心であると知り、無上の心を無上の心であると知るでしょうか。 禅定に入った心を禅定に入った心であると知り、禅定に入っていない心を禅定に入っていない心であると知るでしょうか。 解脱した心を解脱した心であると知り、解脱していない心を解脱していない心であると知るでしょうか」 「いや、友よ、そのようなことはありません」 20 「それでは、あなた方尊者は、このように知って、このように見て、種々の過去の住処を思い出すことができるのでしょうか。 たとえば、一つの生も、二つの生も、三つの生も、四つの生も、五つの生も、十の生も、二十の生も、三十の生も、四十の生も、五十の生も、百の生も、千の生も、十万の生も、数多くの破壊の劫も、数多くの生成の劫も、数多くの破壊の劫と生成の劫も。 ここで、わたしは、このような名前であり、このような姓であり、このような階級であった。このような食べ物があって、このように楽や苦を経験し、このように寿命が尽きた。さらに、ここから死没して、そこに生じた。そこでも、また、このような名前であり、このような姓であり、このような階級であって、このような食べ物があり、このように楽と苦を経験して、このように寿命が尽きた。さらに、そこから死没して、ここに再生した、というように、このような細かな話しをもって、種々に過去世の住処を思い出すことができるのでしょうか」 「いや、友よ、そのようなことはありません」 21 「それでは、あなた方尊者は、このように知って、このように見て、人間を超えた清らかな神の眼によって、人々を見ることができるのでしょうか。 たとえば、死没していく者たちや再生していく者たちを。また、人々が、劣った者になったりすぐれた者になったり、美しい者になったり醜い者になったり、幸福になったり不幸になったりと、業に従って行くのを見ることができるのでしょうか。 尊者たちよ、たとえば、『これらの人々は、身体によって悪しき行いをなし、ことばによって悪しき行いをなし、心によって悪しき行いをなす者であって、聖者を非難する者であり、誤った見解をもつ者であり、誤った見解による行いをなす者であるが、かれらは、身体が壊れ、死んだ後、苦界、悪趣、悪処、地獄に生まれる』とか、尊者たちよ、『これらの人々は、身体によって善い行いをなし、ことばによって善い行いをなし、心によって善い行いをなす者であって、聖者を非難することなく、正しい見解をもつ者で、正しい見解による行いをなす者であるが、かれらは、身体が壊れ、死んだ後、善趣、天界に生まれる』というように、人間を超えた清らかな神の眼によって、人々を見ることができるのでしょうか。たとえば、死没していくものたちや再生していく者たちを。また、人々が、劣った者になったりすぐれた者になったり、美しい者になったり醜い者になったり、幸福になったり不幸になったりと、業に従って行くのを見ることができるのでしょうか」 「いや、友よ、そのようなことはありません」 22 「それでは、あなた方尊者は、このように知って、このように見て、色(色形)を超えて、形のない寂静である解脱に身体によって触れて住するのでしょうか」 「いや、友よ、そのようなことはありません」 23 「では、尊者たちよ、これらの法に到達していないのに、今、このように答えたのですか」 24 「友よ、そうではありません」 25 「では、どうしてですか」 「わたしたちは、智慧によって解脱したのです、友スシーマよ」 26 「わたしは、尊者たちが今簡潔に説いてくれた事柄を、詳しく知ることができません。どうぞ、尊者たちが簡潔に説いてくれたことを、わたしが詳しく知ることができるように、尊者たちは、わたしに話してくれませんか」 27 「友スシーマよ、あなたが知ろうと知るまいと、わたしたちは、智慧によって解脱したのです」 28 さて、尊者スシーマは、坐より起ち上がって、尊師のもとに赴きました。尊師に近づいて、挨拶をし、一方の隅に座りました。 29 一方の隅に坐って、尊者スシーマは、かれら比丘たちとの会話をある限りすべて、尊師に述べました。 30 「スシーマよ、まずは、法に住する智慧があり、その後、涅槃に向かう智慧があるのだよ」 31 「尊師よ、わたしは、尊師がこのように簡略に述べたことを詳しく知ることができません。尊師よ、どうぞ、尊師がこのように簡略に述べたことを、わたしが詳しくわかるように話してください」 32 「スシーマよ、おまえが知ろうと知るまいと、まずは、法に住する智慧があり、その後、涅槃に向かう智慧がある。スシーマよ、おまえはどう思うであろうか、色(形体)は常住だろうか、無常だろうか」 「無常であります、尊師よ」 33 「では、無常であるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」 「苦です、尊師よ」 「無常であり、苦である、転変する法を、『これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの本質である』と見るのは適当だろうか」 「いいえ、適当ではありません、尊師よ」 34 「感受は常住だろうか、無常だろうか」 「無常であります、尊師よ」 「では、無常であるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」 「苦です、尊師よ」 「無常であり、苦である、転変する法を、『これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの本質である』と見るのは適当だろうか」 「いいえ、適当ではありません、尊師よ」 35 「表象は常住だろうか、無常だろうか」 「無常であります、尊師よ」 「では、無常であるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」 「苦です、尊師よ」 「無常であり、苦である、転変する法を、『これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの本質である』と見るのは適当だろうか」 「いいえ、適当ではありません、尊師よ」 36 「意志は常住だろうか、無常だろうか」 「無常であります、尊師よ」 「では、無常であるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」 「苦です、尊師よ」 「無常であり、苦である、転変する法を『これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの本質である』と見るのは適当だろうか」 「いいえ、適当ではありません、尊師よ」 37 「識別作用は常住だろうか、無常だろうか」 「無常であります、尊師よ」 「では、無常であるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」 「苦です、尊師よ」 「無常であり、苦である、転変する法を、『これはわたしのものである、これはわたしである、これはわたしの本質である』と見るのは適当だろうか」 「いいえ、適当ではありません、尊師よ」 38 「それ故に、スシーマよ、いかなる形体(色)であっても、すなわち、過去や未来や現在であれ、あるいは、内であれ外であれ、粗いものであれ細かなものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くであれ近くであれ、一切の形体(色)は、『これはわたしのものではない、これはわたしではない、これはわたしの本質ではない』と、このように、あるがままに正しい智慧をもって見なければならない。 39 いかなる感受(受)であっても、… 40 いかなる表象(想)であっても、… 41 いかなる意志(行)であっても、すなわち、過去や未来や現在であれ、あるいは、内であれ外であれ、粗いものであれ細かなものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くであれ近くであれ、一切の意志(行)は、『これはわたしのものではない、これはわたしではない、これはわたしの本質ではない』と、このように、あるがままに正しい智慧をもって見なければならない。 42 いかなる識別作用(識)であっても、すなわち、過去や未来や現在であれ、あるいは、内であれ外であれ、粗いものであれ細かなものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くであれ近くであれ、一切の識別作用(識)は、『これはわたしのものではない、これはわたしではない、これはわたしの本質ではない』と、このように、あるがままに正しい智慧をもって見なければならない。 43 スシーマよ、このように見ながら、聖なる弟子は教えを聞いて、形体(色)においても厭離する。受(感受)においても厭離する。想(表象)においても厭離する。行(意志)においても厭離する。識においても厭離する。厭離するならば、欲を離れる。離欲すれば、解脱する。解脱したとき、『解脱した』という知識がある。『滅尽したのは、生まれることである。完成したのは、清浄行である。為すべきことは為し遂げられた。もはや、この(輪廻の)状態に再び戻ることはない』と知るのである。 生まれることを縁として老死がある、とおまえは見ているかね、スシーマよ」 「見ています、尊師よ」 44 「生存(有)を縁として生まれることがある、とおまえは見ているかね、スシーマよ」 「見ています、尊師よ」 45 「執着(取)を縁として生存(有)がある、とおまえは見ているかね、スシーマよ」 「見ています、尊師よ」 46 「渇愛を縁として執着(取)がある、とおまえは見ているかね、スシーマよ」 「見ています、尊師よ」 47 「受(感受)を縁として渇愛がある、触(接触)を縁として受(感受)がある、六処を縁として触(接触)がある、名称と色形を縁として六処がある、行(意志)を縁として識(識別作用)がある、無明を縁として行(意志)がある、とおまえは見ているかね、スシーマよ」 「見ています、尊師よ」 48 「生まれることの滅から老死の滅がある、とおまえは見ているかね、スシーマよ」 「見ています、尊師よ」 49 「生存(有)の滅から生まれることの滅がある、とおまえは見ているかね、スシーマよ」 「見ています、尊師よ」 50 「執着(取)の滅から生存の滅がある、渇愛の滅から執着(取)の滅がある、感受(受)の滅から渇愛の滅がある、接触(触)の滅から感受(受)の滅がある、六処の滅から接触(触)の滅がある、名称と色形(名色)の滅から六処の滅がある、識別作用(識)の滅から名称と色形(名色)の滅がある、意志(行)の滅から識別作用(識)の滅がある、無明の滅から意志(行)の滅がある、とおまえは見ているかね、スシーマよ」 「見ています、尊師よ」 51 それでは、スシーマよ、おまえは、このように知って、このように見て、種々様々の~変を経験するだろうか。 つまり、一つになったあと多になったり、多になったあと一つになったりするのだろうか、 また、現れたり隠れたりできるのだろうか。壁や城壁や山を、虚空を行くように、すり抜けて行けるのだろうか、 また、地において、水のように、浮かんだり潜ったりができたり、また、水において、地のように、沈まずに行けたりするのだろうか。 また、虚空において、翼ある鳥のように、座ったまま行くことができるのだろうか、 また、かくも威~力のある、かくも大~力ある、これら月や太陽を、手でつかんだり触れたりできるのだろうか。 また、梵天界にまでも、身体によって自在力を行使できるだろうか」 「いいえ、そのようなことはありません、尊師よ」 52 「それでは<スシーマよ、おまえは、このように知って、このように見て、人間を超えた清らかな神の聴覚の要素によって、遠くであれ近くであれ、神と人間にかんする両方の声を聞くことができるだろうか」 「いいえ、そのようなことはありません、尊師よ」 53 「それでは、スシーマよ、おまえは、このように知って、このように見て、心をもって、他の生き物や他の人々の心を知ることができるだろうか。 たとえば、貪欲のある心を、貪欲のある心であると知り、貪欲を離れた心を貪欲を離れた心であると知り、怒りのある心を怒りのある心であると知り、怒りを離れた心を怒りを離れた心であると知り、痴ある心を痴ある心であると知り、痴を離れた心を痴を離れた心であると知るだろうか。 統一した心を統一した心であると知り、散乱した心を散乱した心であると知り、広大なる心を広大なる心であると知り、狭小なる心を狭小なる心であると知り、さらに上がある心をさらに上がある心であると知り、無上の心を無上の心であると知るだろうか。 禅定に入った心を禅定に入った心であると知り、禅定に入っていない心を禅定に入っていない心であると知るだろうか。 解脱した心を解脱した心であると知り、解脱していない心を解脱していない心であると知るだろうか」 「いいえ、そのようなことはありません、尊師よ」 54 「それでは、スシーマよ、おまえは、このように知って、このように見て、種々の過去の住処を思い出すことができるだろうか。 たとえば、一つの生も、二つの生も、三つの生も、四つの生も、五つの生も、十の生も、二十の生も、三十の生も、四十の生も、五十の生も、百の生も、千の生も、十万の生も、数多くの破壊の劫も、数多くの生成の劫も、数多くの破壊の劫と生成の劫も。 ここで、わたしは、このような名前であり、このような姓であり、このような階級であった。このような食べ物があって、このように楽や苦を経験し、このように寿命が尽きた。 さらに、ここから死没して、そこに生じた。そこでも、また、このような名前であり、このような姓であり、このような階級であって、このような食べ物があり、このように楽と苦を経験して、このように寿命が尽きた。さらに、そこから死没して、ここに再生した、というように、このような細かな話しをもって、種々に過去世の住処を思い出すことができるだろうか」 「いいえ、そのようなことはありません、尊師よ」 55 「それでは、スシーマよ、おまえは、このように知って、このように見て、人間を超えた清らかな神の眼によって、人々を見ることができるだろうか。 たとえば、死没していく者たちや再生していく者たちを。また、人々が、劣った者になったりすぐれた者になったり、美しい者になったり醜い者になったり、幸福になったり不幸になったりと、業に従って行くのを見ることができるだろうか。 スシーマよ、たとえば、『これらの人々は、身体によって悪しき行いをなし、ことばによって悪しき行いをなし、心によって悪しき行いをなす者であって、聖者を非難する者であり、誤った見解をもつ者であり、誤った見解による行いをなす者であるが、かれらは、身体が壊れ、死んだ後、苦界、悪趣、悪処、地獄に生まれる』とか、尊者たちよ、『これらの人々は、身体によって善い行いをなし、ことばによって善い行いをなし、心によって善い行いをなす者であって、聖者を非難することなく、正しい見解をもつ者で、正しい見解による行いをなす者であるが、かれらは、身体が壊れ、死んだ後、善趣、天界に生まれる』というように、人間を超えた清らかな神の眼によって、人々を見ることができるだろうか。たとえば、死没していくものたちや再生していく者たちを。 また、人々が、劣った者になったりすぐれた者になったり、美しい者になったり醜い者になったり、幸福になったり不幸になったりと、業に従って行くのを見ることができるだろうか」 「いいえ、そのようなことはありません、尊師よ」 56 「それでは、スシーマよ、このように知って、このように見て、色(色形)を超えて、形のない寂静である解脱に身体によって触れて住するのだろうか」 「いいえ、そのようなことはありません、尊師よ」 57 「スシーマよ、今、ここで、これらの法に到達することなく解説していること、それが、スシーマよ、わたしたちのなしたことなのである」 58 その時、尊者スシーマは、尊師の足下に頭をつけて身を投げ出し、尊師にこのように述べました。 「罪がわたしを征服しました。尊師よ。このように愚かに、このように罪深く、このように善からぬことをするとは。このわたしは、このようによく説かれた法と律において、法の盗人として出家しました。尊師よ、尊師は、どうぞ、わたしが罪を罪として認めて将来にわ二度と行わないという戒めを、どうぞお受けください」 59 「たしかに、スシーマよ、罪がおまえを征服した。こんなにも愚かに、こんなにも罪深く、こんなにも善からぬことをするとは。このようによく説かれた法と律において、法の盗人として、おまえは出家したのだ。 60 スシーマよ、罪を犯した盗賊を捕まえて王様に示したとしよう。『王様、このものは、罪を犯した盗賊です。お望みのようにかれを処罰してください』 王様は、このものに次のように告げるだろう。『この男をつれていき、頑丈な縄で後ろ手にかたく縛り上げ、頭を剃って、小鼓を激しく鳴らして、道から道へ、辻から辻へと引き回し、南門より出て、都城の南にて首をはねよ』 王様の家来たちは、かれを頑丈な縄で後ろ手にかたく縛り上げて、頭を剃って、小鼓を激しく打ち鳴らして、道から道へ、辻から辻へと引き回し、南門より出て、都城の南にて、首をはねるであろう」 61 「スシーマよ、おまえはこれをどう思うか。この男は、このことによって苦しみと憂いを経験するだろうか」 「そのとおりです、尊師よ」 62 実に、スシーマよ、この男が、このことによって苦しみと憂いを経験するように、同じように、よく説かれた法と律において、法の盗人として出家したものには、これより苦しい報いがあり、これより苦渋の報いがあるのである。そして、また、悪趣へと転落していくのである。 63 しかし、スシーマよ、おまえは、罪を罪として認めて、法に従って懺悔をしている。わたしたちは、それを受け入れよう。というのは、スシーマよ、罪を罪と認めて法にしたがって懺悔をし、将来にわたり戒めを守りぬくならば、聖者の律において繁栄をみるからである。」 |