『サンユッタ・ニカーヤ』12.20.(PTS Text,Vol.2, pp.25-27) cf.稻竿経『大正蔵』16,p.816. 1.尊師は、サーヴァッティーに滞在していました。 2.「比丘たちよ、わたしは、おまえたちに、縁起(パティッチャサムットゥパーダ)と縁起した法を説こう。これを聞いて、善く思念してみなさい。わたしは語ろう。」 「どうぞ、尊師よ」と、かの比丘たちは、尊師に答えました。 尊師はこのように言いました。 3.「比丘たちよ、どのようなものが、縁起であるのか。 比丘たちよ、<生まれること>に縁って老死がある、のは、如来が出る・出ないにはかかわらない。「定まっていること(ティター)」であるのが、この要素(界)であって、(それは)「法として確立していること(ダンマッティタター)」であり、「法として決定していること(ダンマニヤマター)」であり、「これに縁ること(イダッパッチャヤター)」である。 如来は、これをよく悟り、よく了解している。 よく悟り、よく了解したのち、告げ、示し、知らしめ、設定し、開明し、分別し、明らかにし、『見よ』と言うのである。 4.比丘たちよ、<生まれること>に縁って老死がある。 比丘たちよ、<有>に縁って生まれることがある。 比丘たちよ、<取>に縁って有がある。 比丘たちよ、<渇愛>に縁って、取がある。 比丘たちよ、<感受>に縁って渇愛がある。 比丘たちよ、<触>に縁って感受がある。 比丘たちよ、<六入>に縁って触がある。 比丘たちよ、<名色>によって六入がある。 比丘たちよ、<識>に縁って名色がある。 比丘たちよ、<行>によって識がある。 比丘たちよ、<無明>に縁って行がある、という(以上の)ことは、如来が出る・出ないにかかわらない。 「定まっているのこと」であるのが、この要素(界)であり、(それは)「法として確立していること」であり、「法として決定していること」であり、「これに縁ること」である。如来は、これをよく悟りよく了解している。 よく悟り、よく了解したのち、告げ、示し、知らしめ、設定し、開明し、分別し、明らかにし、『見よ』と言うのである。 5.比丘たちよ、<無明>に縁って行がある。 以上のように、比丘たちよ、そこにあるのは、「あるがままであること(タタター))」、「あるがままを離れないこと(アヴィタタター)」、「異ならざること(アナンニャタター)」、「これに縁ること(イダッパッチャヤター)」である。比丘たちよ、これが、縁起(パティッチャサムットゥパーダ)であると言われる。 6.それでは、比丘たちよ、どのようなものが縁起した法(性質)であるのか。 比丘たちよ、老死は、無常であり、作られたもの(有為)であり、縁によって生じたものであり、尽きてしまう性質のものであり、衰滅する性質のものであり、欲を離れる性質のものであり、消滅する性質のものである。 7.比丘たちよ、生まれることは、無常であり、作られたものであり、縁によって生じたものであり、尽きてしまう性質のものであり、衰滅する性質のものであり、欲を離れる性質のものであり、消滅する性質のものである。 8.比丘たちよ、有は、無常であり、作られたものであり、縁によって生じたものであり、尽きてしまう性質のものであり、衰滅する性質のものであり、欲を離れる性質のものであり、消滅する性質のものである。 9-16.比丘たちよ、取は…。比丘たちよ、渇愛は、…。比丘たちよ、感受は、…。比丘たちよ、触は、…。比丘たちよ、六処は、…。比丘たちよ、名色は、…。比丘たちよ、識は…。比丘たちよ、行は、…。 17.比丘たちよ、無明は、無常であり、作られたものであり、縁によって生じたものであり、尽きてしまう性質のものであり、衰滅する性質のものであり、欲を離れる性質のものであり、消滅する性質のものである。比丘たちよ、これらが、縁起した法(性質)であると言われる。 18.比丘たちよ、聖なる弟子には、この縁起とこれら縁起した法(性質)とが、如実に、正しい智慧をもって、よく見られてはいる。 だが、実に、彼は過去にさかのぼることがあるだろう。 実に、わたしは過去世に有ったのだろうか、それとも、わたしは過去世になかったのだろうか。実にわたしは過去世に何であったのだろうか。実にわたしは過去世にどのような状態であったのだろうか。わたしは過去世において、何になった後、何であったのだろうか、と。 19.あるいは、かれは未来に向かうことがあるだろう。 実に、わたしは、未来世にあるだろうのか、それとも、わたしは、未来世にないのだろうか。 わたしは、未来世に何になるのだろうか。未来世に、どのような状態でいるのだろうか。 わたしは未来世において何になった後何になるのだろうか。 20.あるいは、かれは、現在において、自己のうちに疑いが起こることもあるだろう。 わたしは、実に有るのだろうか、それとも、ないのだろうか。 わたしは何であろうか。わたしはどのような状態なのだろう。 わたしという生き物は、どこから来て、どこに行くものとなるのだろうか。 この道理(ターナ)は知られない。 21.これは、どうしてなのか。比丘たちよ、このように、聖なる弟子には、 この縁起と縁起した法(性質)とが、如実に、正しい智慧をもってよく見られているからである」と。 |