心にしみる原始仏典


『サンユッタ・ニカーヤ』12.67(PTS Text,SN.Vol.2, pp.112-115.)
漢訳:雑阿含経(二八八)(『大正蔵』二、八一頁上〜八一頁下)


「葦束」

1.あるとき、尊者サーリプッタと尊者マハーコーッティタは、バラナシの仙人堕処にある鹿野園に滞在していました。
2.さて、尊者マハーコーッティタは、夕刻時に独坐より起ち上がってサーリプッタ尊者のところに出かけて行きました。出かけて行って尊者サーリプッタとともに喜ばしい会話を交わして一方の隅に坐りました。

3.一方の隅に坐ったマハーコーッティタは尊者サーリプッタにこのように言いました。――
「友、サーリプッタよ、自ら作ったものが老いと死なのでしょうか。他が作ったものが老いと死なのでしょうか、自ら作りそして他が作ったものが老いと死なのでしょうか、それとも、自ら作るのではなく他が作るのではなく無因で生ずるのが老いと死なのでしょうか?」
4.「友、コーッティタよ、自ら作ったものが老いと死なのではありません、他が作ったものが老いと死なのではありません。自ら作りかつ他が作ったものが老いと死なのではありません。さらにまた、自ら作ることなく他が作ることなく無因で生じたものが老いと死なのではありません、そうではなくて、ただ生まれることに縁って老いと死があるのです」と。

※十二支縁起が、「老死」から遡る形で、語られている。順観で示すと、無明→行→識→名色→六入(六処)→触→受→愛(渇愛)→取(取著)→有(生存)→生(生まれること)→老死(老いること・死ぬこと)である。

5.「友、サーリプッタよ、自ら作ったものが生まれることなのでしょうか。他が作ったものが生まれることなのでしょうか、自ら作りそして他が作ったものが生まれることなのでしょうか、それとも、自ら作るのではなく他が作るのではなく無因で生ずるものが生まれることなのでしょうか?」
6.「友コーッティタよ、自ら作ったものが生まれることなのではなく、他が作るものが生まれることなのではなく、自ら作りかつ他が作るものが生まれることなのではなく、自ら作るのではなく他が作るのではなく無因で生ずるのが生まれることなのではなく、そうではなく、ただ生存に縁って生まれることがあるのです。」と。

7-18.「友、サーリプッタよ、自ら作るのが生存なのでしょうか。…乃至…。自ら作るのが取著なのでしょうか。…乃至…。自ら作るのが渇愛なのでしょうか、…乃至…。自ら作るのが感受なのでしょうか、…乃至…。自ら作るのが触なのでしょうか、…乃至…。自ら作るのが六処なのでしょうか、…乃至…。
19.自ら作るのが名色なのでしょうか、他が作るのが名色なのでしょうか、自ら作りそして他が作ったものが名色なのでしょうか、それとも、自ら作るのではなく他が作るのではなく無因で生ずるものが名色なのでしょうか?」
20.「友コーッティタよ、自ら作るのが名色なのではありません、他が作るのが名色なのではありません、自ら作り他が作るのが名色なのではありません。そして、自ら作るのではなく他が作るのではなく無因で生ずるのが名色なのではありません。そうではなく、ただ識に縁って名色があるのです」と。

21.「では、友サーリプッタよ、自ら作るのが識なのでしょうか。他が作るのが識なのでしょうか、自ら作りそして他が作るのが識なのでしょうか、それとも、自ら作るのではなく他が作るのではなく無因で生ずるものが識なのでしょうか?」
22.「友コーッティタよ、自ら作るのが識なのではありません、他が作るのが識なのではありません、自ら作り他が作るのが識なのではありません。そして、自ら作るのではなく他が作るのではなく無因で生ずるのが識なのではありません。そうではなく、ただ名色に縁って識があるのです」と。

23.「わたしたちは、尊者サーリプッタの説くところをこのように了解しています。友コーッティタよ、自ら作るのが名色なのではありません、他が作るのが名色なのではありません、自ら作り他が作るのが名色なのではありません。そして、自ら作るのではなく他が作るのではなく無因で生ずるのが名色なのではありません。そうではなく、ただ識に縁って名色があるのです」と。

24.「そして、またわたしたちは、尊者サーリプッタの説くところをこのように了解しています。友コーッティタよ、自ら作るのが識なのではありません、他が作るのが識なのではありません、自ら作り他が作るのが識なのではありません。そして、自ら作るのではなく他が作るのではなく無因で生ずるのが識なのではありません。そうではなく、ただ名色に縁って識があるのです」と。


25「友サーリプッタよ、この説かれたことはどのように見たらよいのでしょうか?」

「友よ、それでは、ここで、わたしは喩えをなしてみましょう。この世では、或る識者たちは喩えによって語られた意味を了解しています。

26 友よ、二つの葦束が互いに他に依りかかって立っているとしましょう。まさにこのように、友よ、名色に縁って識があり、識に縁って名色があります。名色に縁って六処があり六処に縁って触があります。…乃至…このようにこれらすべての苦の集まりの集起があるのです。

友よ、これらの葦束のうち一つを引きさるとしましょう。一方から倒れるでしょう。他を引けば他から倒れるでしょう。まさにこのように、友よ、名色の滅から識の滅があります。識の滅から名色の滅があります。名色の滅から六処の滅があり、六処の滅から触の滅があり、…乃至…、このようにして、これらすべての苦しみの集まりの滅があります」と。

27「希有なことです。友サーリプッタよ、未曾有なことです、友サーリプッタよ!このことは尊者サーリプッタによってかくも見事に説かれたのです。この尊者サーリプッタの説いたことを、わたしたちは(次のような)36の事柄をもって随喜します。

28.老死について、友よ、比丘が厭離するため、離欲するため、滅するために法を説くならば、『法の説示者であるのは比丘なのです』という言説は適切なのです。
老死について、友よ、厭離するため、離欲するため、滅するために行道するならば、『法に従って法を実践するのは比丘なのです』という言説は適切なのです。
老死について、友よ、比丘が厭離し、離欲し、滅するために、取著なく解脱しているならば、『現に見られた法において涅槃に入ったのは比丘なのです』という言説は適切なのです。

29-38.生まれることについて…、生存について…、取著について…、渇愛について…、感受について…、触について…、六処について…、名色について…、識について…、行について…、無明について…、友よ、比丘が厭離するために、離欲するため、滅するために法を説くならば、『説法者であるのは比丘なのです 』という言説は適切なのです。

39.無明について…、友よ、比丘が厭離するために、離欲するため、滅するために法を説くならば、『説法者であるのは比丘なのです』という言説は適切なのです。
無明について、友よ、厭離するために、離欲するために、滅するために行道するならば、『法に従って法を行っているのは比丘なのです』、という言説は適切なのです。
無明について、友よ、厭離するため、離欲するため、滅するために、取著なく解脱しているならば、『比丘は現に見られた法において涅槃に入ったのです』という言説は適切なのです。





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