心にしみる原始仏典


「箭喩経」『マッジマ・ニカーヤ』第63経(PTS Text,MN.Vol.1,pp.426-432.)
漢訳:中阿含」二二一経(『大正蔵』一、八〇四上〜八〇五下)、『箭喩経』(『大正蔵』一、九一七中〜九一八中)。


このように、わたしによって聞かれた。
あるとき、尊師はサーヴァッティにあるジェータ林の給孤独長者の園に滞在していた。
そのとき、マールンクヤプッタ尊者は静かなところにいて独座していたが、このように、心に探究が生じた、(すなわち)
「次のような、見解は、尊師によって語られず、捨て置かれ、拒絶されている、すなわち
『永遠であるのは世界である』も
『永遠でないのは世界である』も
『有限なるものは世界である』も
『無限なるものは世界である』も
『命と身体は同じである』も
『命と身体は別である』も
『如来は死後に存在する』も
『如来は死後に存在しない』も
『如来は死後に存在しかつ存在しない』も
『如来は死後に存在するのではなく、存在しないのでもない』も。これらを尊師は、わたしに語らなかった。
これらのことを尊師がわたしに語らないというこのことは、わたしにはうれしくない。このことはわたしには耐え難い。
わたしは、尊師のもとに近づいて、この意味をたずねよう。

もし、尊師がわたしに
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後に存在する』とか
『如来は死後に存在しない』とか
『如来は死後に存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後に存在するのではなく存在しないのでもない』とか
語るならば、わたしは尊師のところで清浄行を行うことにしよう。

もし、尊師がわたしに
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後存在することはまったくなく存在しないのでもない』とか
語らないならば、わたしは学ぶことを止めて還俗してしまおう」と。

さて、そこで、マールンクヤプッタ尊者は、夕刻時に独座より立ち上がって、尊師のところに近づいた。近づいて、尊師に敬礼してかたわらに座った。

さて、かたわらに座ったマールンクヤプッタ尊者は、尊師にこのように言った。
「今ここで、尊師よ、一人静かに独座していたわたしに、心の中に次のような探究が生じました。
:(すなわち)次のような、見解は、尊師によって語られず、捨て置かれ、拒絶されている、すなわち
『永遠であるのは世界である』も
『永遠でないのは世界である』も
『有限なるものは世界である』も
『無限なるものは世界である』も
『命と身体は同じである』も
『命と身体は別である』も
『如来は死後に存在する』も
『如来は死後に存在しない』も
『如来は死後に存在しかつ存在しない』も
『如来は死後に存在するのではなく、存在しないのでもない』も。これらを尊師は、わたしに語っていない。
これらのことをわたしに語らないという、このことは、わたしにはうれしくない、わたしには耐え難い。わたしは、尊師のところに行って、この意味をたずねよう。

もし、わたしに尊師が
『永遠であるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後に存在する』とか
『如来は死後に存在しない』とか
『如来は死後に存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後に存在するのではなく存在しないのでもない』とか
語るならば、わたしは尊師のところで清浄行を行うことにしよう。

もし、尊師がわたしに
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後存在することはまったくなく存在しないのでもない』とか
語らないならば、わたしは学ぶことを止めて還俗してしまおう」と。

もし尊師が
『永遠であるのは世界である』と知っているならば、
『永遠であるのは世界である』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『永遠でないのは世界である』と知っているならば、
『永遠でないのは世界である』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『永遠であるのは世界である』か、または、
『永遠でないのは世界である』か
知らないのであれば、
知らないし見ない人にとっては、次のようにあるのが正しい、すなわち、
『わたしは知らない、わたしは見ない』というように。

もし尊師が
『有限であるのは世界である』と知っているならば、
『有限であるのは世界である』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『無限であるのは世界である』と知っているならば、
『無限であるのは世界である』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『有限であるのは世界である』か、または、
『無限であるのは世界である』か
知らないのであれば、
知らないし見ない人にとっては、次のようにあるのが正しい、すなわち、
『わたしは知らない、わたしは見ない』というように。

もし尊師が
『命と身体とは同じである』と知っているならば、
『命と身体とは同じである』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『命と身体とは異なっている』と知っているならば、
『命と身体は異なっている』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『命と身体は同じである』か、または、
『命と身体は異なっている』か
知らないのであれば、
知らないし見ない人にとって、次のようにあるのが正しい、すなわち、
『わたしは、知らない、わたしは見ない』というように。

もし尊師が
『如来は死後存在する』と知っているのであれば、
『如来は死後存在する』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『如来は死後存在しない』と知っているのであれば、
『如来は死後存在しない』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『如来は死後存在する』か
『如来は死後存在しない』かのいずれであるか
知らないのであれば、
知らないし見ない人にとっては、次のようにあるのがだけが正しい、すなわち、
『わたしは知らない、わたしは見ない』というように。

もし尊師が
『如来は死後存在するし、かつ、如来は死後存在しない』と知っているならば、
『如来は死後存在するし、かつ、如来は死後存在しない』とわたしに尊師は語るべきです。

もし尊師が
『如来は死後に存在するのではないし、存在しないのではない』と知っているならば、 『如来は死後存在するのではないし、存在しないのではない』とわたしに尊師が語るべきです。

もし尊師が
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』か、あるいは『如来は死後存在するのではないし、存在しないのではない』と知らないのであれば、
知らない人見ない人にとっては、次のようにあるのだけが正しい、すなわち、 『わたしは知らない、わたしは見ない』というように。」

「それでは、マールンクヤプッタよ、おまえにわたしがこのように言ったことがあったか、『来たれ、マールンクヤプッタよ、おまえはわたしのところで清浄行を行いなさい。わたしはおまえに語るだろう、すなわち、
『永遠なるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体とは同じである』とか
『命と身体とは異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』と」

「いいえ、そうではありません、尊師よ」

「あるいは、また、おまえがわたしにこのように言ったことがあったか、『尊師よ、わたしは尊師のところで清浄行を行いましょう、尊師はわたしに語ってくれるでしょう、すなわち、
『永遠なるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体とは同じである』とか
『命と身体とは異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』と」

「いいえ、そうではありません、尊師よ」

「そう言うことだ、マールンクヤプッタよ、わたしがおまえに
『来たれ、マールンクヤプッタよ、おまえはわたしのところで清浄行を行うがよい、わたしはおまえに語るだろう
『永遠なるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体とは同じである』とか
『命と身体とは異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』』と話すということは全くない。

そしてまた、マールンクヤプッタよ、わたしにおまえが
『尊師よ、わたしは尊師のところで清浄行を行いましょう、尊師はわたしに 語ってくれるでしょう、すなわち、
『『永遠なるものは世界である』
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体とは同じである』とか
『命と身体とは異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』』と話すということもない。
このようであるのに、愚か者よ、何を拒絶するのだ。

マールンクヤプッタよ、人が次のように言うのであれば:すなわち「尊師がわたしに
『永遠なるものは世界である』とか
『永遠でないものは世界である』とか
『有限であるものは世界である』とか
『無限であるものは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』』と語らないのであるかぎりは、わたしは尊師のところで清浄行を行わないだろう」と(言うのであれば、その場合、)
マールンクヤプッタよ、如来によってそのことは語られず、かの人は、死んでしまうだろう。

たとえば、マールンクヤプッタよ、人がしっかりと毒の塗られた矢によって射られたとき、友人や親族は、医者、外科医に手当てさせ看護するだろう。

そこで、彼は次のように言うとしよう:「射た人が、クシャトリアであるか、バラモンであるか、ヴァイシャであるか、シュードラであるか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射たものが、これこれの名前で、これこれの氏族であると知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射たものが、背が高いか、低いか、中くらいか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射たものが、肌が黒いか、黒褐色か、金色か知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼が次のように言うとしよう。:「射たものが、これこれの村にいるのか、これこれの町にいるのか、これこれの都市にいるのか知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼が次のように言うとしよう。:「射た弓が、チャーパ蒜か石弓か知らないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼が次のように言うとしよう。:「射た弓の弦が、アッカ草からなるのか、サンタ葦からなるのか、腱からなるのか、麻からなるのか、キーラパルニン草からなるのか知らないうちは、わたしは、この矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射た矢柄が、カッチャ葦なのか、ローピマ葦か知られないうちは、わたしはこの矢を抜かないだろう」と。

彼が次のように言うとしよう:「射た矢柄のその先についている羽が、鷲のの羽か、青鷺の羽か、孔雀の羽か、シティラハヌ鳥の羽であるか知らないうちは、わたしは、この羽を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射た矢柄にまいてある腱が牛のものか、水牛のものか、鹿のものか、猿のものか知らないうちは、わたしは、この矢を抜かないだろう」と。

彼は次のように言うとしよう:「射た矢が、クラッパ(尖箭)種なのか、ヴェカンダ(鉤箭)種なのか、鉄矢なのか、犢歯箭なのか、夾竹桃葉箭なのか知らないうちは、わたしは、この矢を抜かないだろう」と。


マールンクヤプッタよ、このことはまったくこの人には知られず、この人は、死んでしまうだろう。
まったく同じように、マールンクヤプッタよ、このように言う人があるとしよう:「わたしに尊師が次のように語らないうちは、わたしは尊師のもとで清浄行行わないだろう、すなわち
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』とか
『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』と。
マールンクヤプッタよ、その場合、如来によって語られないので、その人は死んでしまうであろう。

マールンクヤプッタよ、『永遠であるのは世界である』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『永遠でないのは世界である』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『永遠であるのは世界である』という見解があろうと、あるいは、『永遠でないのは世界である』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自らにより)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

マールンクヤプッタよ、『有限であるのは世界である』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『無限であるのは世界である』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『有限であるのは世界である』という見解があろうと、あるいは、『無限であるのは世界である』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自らにより)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

マールンクヤプッタよ、『命と身体とは一つである』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『命と身体とは異なっている』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『命と身体とは一つである』という見解があろうと、あるいは、『命と身体とは異なっている』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自ら)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在する』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在しない』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在する』という見解があろうと、あるいは、『如来は死後存在しない』という見解があろうと、あいかわらず生があり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自ら)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在し、かつ、存在しない』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはない。
マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』という見解があるとき、清浄行に住するだろう、という、このようなことはないのである。

マールンクヤプッタよ、『如来は死後存在し、かつ、存在しない』という見解があろうと、『如来は死後存在するのではなく、存在しないのではない』という見解があろうと、あいかわらずせいがあり老いがあり死があり、愁い、悲しみ、苦しみ、歎き、悩みがある。わたしは、(自ら)見られた法において、それらは破壊されたと教えるだろう。

それだから、マールンクヤプッタよ、わたしによって語られなかったことは、語られなかったものと憶持しなさい。そして、語られたものは、語られたものと憶持しなさい。

マールンクヤプッタよ、わたしによって語られなかったものとは何であるか?
マールンクヤプッタよ、『永遠なのは世界である』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『永遠でないのは、世界である』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『有限であるのは世界である』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『無限であるのは世界である』というのは、わたしによって語らなかったことである。
『命と身体とは一つである』というのは、わたしによって語られなかったことる。
『命と身体とは異なっている』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『如来は死後存在する』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『如来は死後存在しない』というのは、わたしによって語られなかった事である。
『如来は死後存在し、かつ、存在しない』というのは、わたしによって語られなかったことである。
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』というのは、わたしによって語られなかったことである。

なぜ、これらのことが、マールンクヤプッタよ、わたしによって語られなかったのか?:
これらは、マールンクヤプッタよ、利益をともなわず、最初の清浄行のものではない。厭離に導かず、離欲に導かず、止滅に導かず、寂静に導かず、証智に導かず、正覚に導かず、涅槃に導かない。それだから、これらは、わたしによって語られないことである。

マールンクヤプッタよ、わたしによって語られたことは何であるか:
マールンクヤプッタよ、『これが苦である』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の集起するところである』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の滅である』というのが、わたしによって語られたことである。
『これが苦の滅へ向かう道である』というのが、わたしによって語られたことである。

マールンクヤプッタよ、なぜ、これがわたしによって語られたのか:
なぜなら、マールンクヤプッタよ、これは利益をともなうからである。これは、最初の清浄行のものだからである。これは、厭離に導き、離欲に導き、止滅に導き、寂静に導き、証智に導き、正覚に導き、涅槃に導くからである。それだから、これはわたしによって語られたのである。

それだから、マールンクヤプッタよ、ここで、わたしによって語られなかったことは、語られなかったことと憶持しなさい。わたしによって語られたことは語られたことと憶持しなさい。
 
このことを尊師は語った。心かなえるマールンクヤプッタ尊者は、尊師によって説かれたことを喜んだ。


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