心にしみる原始仏典


『アングッタラ・ニカーヤ』V.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8)
三の集まり 大なる章 67

1.比丘たちよ。つぎのような三つが、討論に関することがらである。三つとは何か。
比丘たちよ。過去の時については、「過去の時に、このようであった」と語らねばならない。あるいは、比丘たちよ、未来の時については、「未来の時に、このようであろう」と語らねばならない。あるいは、今現在に関しては、「今現在このようである」と語らねばならない。


2.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に解答せず、分けて答えるべき問いに、分けて解答せず、反問して答えるべき問いに、反問して解答せず、捨て置くべき問いを捨て置かないならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしくないのである。

またもし、比丘たちよ、もしある人が質問されて、断定的に解答すべき問いに、断定的に解答し、分けて答えるべき問いに、分けて解答し、反問して答えるべき問いに、反問して解答し、捨て置くべき問いを捨て置くならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしいのである。


3.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立てず、仮定とするものをはっきりと立てず、了解した論議をはっきりと立てず、方法をはっきり立てないならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。

比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立て、仮定とするものをはっきりと立て、了解した論議をはっきりと立て、方法をはっきり立てるならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。


4.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。比丘たちよ。もしある人が質問されて、矛盾して答え、他の方に話題をそらし、不機嫌になって敵意を示し不信をあらわにする※ならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。
※PTS Dic.'he shows forth ill-temper,malice and mistrust'による。

比丘たちよ。もしある人が質問されて、矛盾して答えることなく、他の方に話題をそらすこともせず、不機嫌になったり敵意を示したり不信をあらわにすることもないならば、このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。


5.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
比丘たちよ。もしある人が質問されて、ののしったり、威圧したり、あざけり笑ったり、口ごもったのをあげつらったりするならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。

比丘たちよ。もしある人が質問されて、ののしったりすることなく、威圧したりもせず、あざけり笑ったりせず、口ごもったのをあげつらったりすることがないならば、このような人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。


6.討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。

比丘たちよ、傾聴に値しない人は、喩えて言えない人※である。傾聴してよい人は、喩えて言える人である。喩えて言える人であるならば、ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、ただひとつの法を捨て去り、ただひとつの法を直観する。ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、ただひとつの法を捨て去り、ただひとつの法を直観する人であるならば、正しい解脱に触れるのである。
※「喩え」については、相当の漢訳「説処経」では因縁を意味する「因」と訳出しているが、それは取らず。Cf.upanisA= Skt.upaniZad=aupamye PANini 1.4.79


比丘たちよ、このために、討論がある。このために、熟考がある、このために喩えがある。このために、耳あるものを保つのである。こうであれば、執着を離れ心の解脱がある。

※いかに偈が続くがちょっと略す。そのうちね。

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