『サンユッタ・ニカーヤ』12-15.(PTS Text,U.pp.16-17) 15. カッチャーヤナ(カッチャーナ) 1 尊師は、サーヴァッティに滞在していた。 2 その時、尊者カッチャーヤナ姓の者は、尊師のところに赴いた。赴いて、尊師に礼拝して、一方の隅に坐った。一方の隅に坐った。 3 一方の隅に坐った尊者カッチャーヤナ姓の者は、尊師にこのように言った。 「尊師よ、「『正しい見解、正しい見解』といわれますが、尊師よ、どのような点で、正しい見解なのでしょうか」 4 「カッチャーヤナよ、実に、この世間の多くは、「有ること」と「無いこと」の二つに依存している。 5 カッチャーヤナよ、世間の集起を、あるがままに、正しい智慧によって見るものには、世間において「無いこと」というのはない。カッチャーナよ、世間の滅を、あるがままに、正しい智慧によって見るものには、世間において「有ること」というのはない。 6この世間の多くは、カッチャーヤナよ、近づき、執って、とらわれ、縛られるのである。だが、かの者(仏弟子)は、近づくこと、執ること、心に確立すること、とらわれること、潜在させることに、近づかず、執らず、確定しない。すなわち、「わたしにとって自己がない※(自己がある)」と。 ※ attA na me ti とある。第六結集版では、attA me tiとなっている。 7 生じてきているその苦しみを「生じている」と、滅してきているその苦しみを「滅している」と、疑うことなく、ためらうことなく、他を縁とせずに、ただ、この知識だけが、ここにある。カッチャー(ヤ)ナよ、この限りで、正しい見解がある。 「 一切がある」というこれは、カッチャーヤナよ、一つの極端である。 「一切は無い」というこれは、第二の極端である。 カッチャーヤナよ、これら二つの極端に近づくことなく、如来は、中(道)によって法を説く。すなわち、 8 無明を縁として行がある。行を縁として識がある。識を縁として名色がある。名色を縁として六入がある。六入を縁として触がある。触を縁として受がある。受を縁として愛がある。愛を縁として取がある。取を縁として有がある。有を縁として生がある。生を縁として老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。このように、これらすべての苦の集まりの集起がある。 無明を残りなく離れ滅するから、行の滅がある。行の滅から識の滅がある。識の滅から名色の滅がある。名色の滅から六入の滅がある。六入の滅から触の滅がある。触の滅から受の滅がある。受の滅から愛の滅がある。愛の滅から取の滅がある。取の滅から有の滅がある。有の滅から生の滅がある。生の滅から老死の滅があり、愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このように、これらすべての苦の集まりの滅がある。 |