心にしみる原始仏典


『ウダーナ』5.5(PTS Text,pp.51-56.)
ソーナ長老品第五

05 布薩 



 このように、わたしは聞きました。ある時尊師はサーヴァッティーの東園にある鹿母講堂に滞在していました。

 その時、尊師は、その日の布薩において、比丘の集団に囲まれて坐っていました。

 さて、尊者アーナンダは、夜も更けて、第一夜分※を過ぎた頃、座より立ち上がって、一方の肩に衣を掛け、尊師の方に合掌して、尊師にこのようにいいました。

※ 夜(午後6時ころー午前6時ころ)を三つにわけ、その第一番目の部分(午後6時−午後10時頃)。中夜分(午後10時−午前2時頃)、後夜分(午前2時−午前6時頃)と考えておこう。

 「尊師よ、夜も更けています。第一夜分が過ぎました。比丘たちの集まりは久しく坐っています。尊師よ、尊師は比丘たちのために戒律の条文を説いてください」
 このようにいわれて、尊師は沈黙していました。
 再び、尊者アーナンダは、夜も更けて、中夜分の過ぎた頃、座より起ち上がって、一方の肩に衣を掛けて、尊師の方に合掌して、尊師にこのようにいいました。
 「尊師よ、夜も更けています。中夜分が過ぎました。比丘たちの集まりは久しく坐っています。尊師よ、尊師は比丘たちのために戒の条文を説いてください」
 尊師は、二度目も沈黙していました。
 三度目に、尊者アーナンダは、夜も更け後夜分を過ぎて、暁がやってきて夜が白んでくるころ、座より起ち上がって、一方の肩に衣を掛け、尊師の方に向かって合掌して、尊師にこのようにいいました。
 「尊師よ、夜も更けています。後夜分が過ぎて、暁がやってきています。夜は白んでいます。比丘たちの集団は久しく坐っています。尊師よ、戒の条文を説いてください」

「アーナンダよ、衆会は清浄ではありません」

 そこで、尊者大モッガラーナはこのように思いました。「尊師が、『アーナンダよ、衆会は清浄ではありません』と、このように述べたのは、どの人物に関してであろう」
 そこで、尊者大モッガラーナは、比丘の集まりすべての者を、心によって心を知って、注意深く意識しました。
 そして、尊者大モッガラーナは、その人を見ました。(かれは)戒も守らず悪しき法をもっていて、清らかではなく疑いを起こさせるような行いの人で、仕事に至るまで覆われていました。沙門ではないのに沙門と公言し、清浄行を行っていないのに、清浄行を行っていると公言していました。(かれの)内面は腐って(中から汚れが)漏れ出して、汚濁の中から生まれて、比丘たちの集まりのまん中に坐ってしました。(大モッガラーナは)見終わって座より起ち上がり、かの人のいるところに近づいていきました。近づいて、その人にこのように言いました。「起ちなさい、友よ、あなたは、尊師によって見られています。あなたは、比丘たちと一緒に住まいすることはなりません」
 しかし、その比丘は、黙っていました。
 再び、尊者大モッガラーナは、その比丘に言いました。「起ちなさい、友よ、あなたは尊師によって見られています。あなたは比丘たちと一緒に住まいすることはなりません」
二度目も、その比丘は黙っていました。
 三度目に、尊者大モッガラーナは、…… 住まいすることはなりません」
しかし、三度目も、その比丘は黙っていました。

 そこで、大モッガラーナは、その比丘の腕をつかんで門の通路から外に追い出して、閂を掛けて、尊師のところに近づきました。近づいて、尊師にこのように言いました。「尊師よ、わたしが、かの比丘を追い出しました。衆会はことごとく清らかです。尊師よ、尊師は、比丘たちに戒の条文を説いてください」
 「希有なことです、大モッガラーナよ、不思議なことです、大モッガラーナよ、腕をつかむまで、その愚か者が出て行かないというのは」

 さて、尊師は比丘たちに語りかけました。「比丘たちよ、今、これより後は、わたしは布薩を行うことはないし、戒の条文を説くこともないでしょう。今、これより後は、あなたがただけで布薩を行い、戒の条文を唱えるとよいでしょう。如来が、不浄の衆会ともに布薩を行い戒を唱えるということは、八つのことに関して、機会のないことなのです。比丘たちよ、これら八つは、大海における希有で不可思議な法なのです。阿修羅たちは、見た後見た後、大海に置いて歓喜するのです。何が八つなのでしょうか。

1.比丘たちよ、大海は次第に深くなり、次第に傾いて、次第に傾斜していき、急にがけになることはありません。比丘たちよ、大海は次第に深くなり次第に傾いて、次第に傾斜していき、急にがけになることはないのは、比丘たちよ、大海における第一番目の希有で不思議な法なのです。そのことを、阿修羅たちが、見た後見た後、大海について歓喜するのです。

2.比丘たちよ、他には、大海は住立したもの(ダンマ)であって、海岸を越えることはありません。比丘たちよ、大海が住立したもの(ダンマ)であって海岸を越えることがないのは、比丘たちよ、大海における第二の希有で不思議な法なのです。そのことを、見た後見た後、阿修羅たちは大海について歓喜するのです。

3.比丘たちよ、また他には、大海は死者や死骸とともにあることはありません。もし、大海に死者や死骸があるならば、速やかに岸に運び陸地にうちあげます。比丘たちよ、大海に死者や死骸があるなら速やかに岸に運び陸地にうちあげるということは、比丘たちよ、大海における第三の希有で不思議な法なのです。そのことを、見た後見た後、阿修羅たちは大海について歓喜するのです。

4.比丘たちよ、また他に、ガンジス川やヤムナー川やアチラーヴァティー川やマヒー川というような、どんな大河であれ、それらが大海に到達して前の名や姓を捨てると、ただ大海とだけ呼ばれるのです。比丘たちよ、ガンジス川やヤムナー川やアチラーヴァティー川やマヒー川というような、どんな大河であれ、それらが大海に到達して前の名や姓を捨てると、ただ大海とだけ呼ばれることは、比丘たちよ、大海における第四の希有で不思議な法なのです。そのことを、見た後見た後、阿修羅たちは大海について歓喜するのです。

5.比丘たちよ、また他に、世界にある河川の流れが大海に流入し、空からの大雨が降り注ぐとしても、大海は、不足も満杯も認められません。比丘たちよ、世界にある河川の流れが大海に流入し、空からの大雨が降り注ぐとしても、大海は、不足も満杯も認められないことが、大海における第五の希有で不思議な法なのです。そのことを、見た後見た後、阿修羅たちは大海について歓喜するのです。

6.比丘たちよ、また他に、大海は、一味であって塩の味です。比丘たちよ、大海が一味であって塩の味であることは、比丘たちよ、大海における第六の希有で不思議な法なのです。そのことを、見た後見た後、阿修羅たちは大海について歓喜するのです。

7.比丘たちよ、また他に、大海には多くの宝があり、種々の宝があります。たとえば、そこには、真珠、宝珠、螺鈿、宝石、珊瑚、銀、金、紅玉、瑪瑙というようなこれらの宝があるのです。比丘たちよ、大海には多くの宝があり、種々の宝があって、たとえば、そこには、真珠、宝珠、螺鈿、宝石、珊瑚、銀、金、紅玉、瑪瑙というような、これらの宝があることが、比丘たちよ、大海における第七番目の希有で不思議な法なのです。そのことを、見た後見た後、阿修羅たちは大海について歓喜するのです。

8.比丘たちよ、また他に、大海は、大きな生き物たちの住処です。たとえば、そこには、大魚、巨大魚、超大魚、阿修羅たち、龍たち、ガンダルヴァたちが、百ヨージャナにもわたる存在で、二百ヨージャナにもわたる存在で、三百ヨージャナにもわたる存在で、四百ヨージャナにもわたる存在で、五百ヨージャナにもわたる存在でいるのです。比丘たちよ、大海は、大きな生き物たちの住処であって、たとえば、そこには、大魚、巨大魚、超大魚、阿修羅たち、龍たち、ガンダルヴァたちが、百ヨージャナにもわたる存在で、二百ヨージャナにもわたる存在で、三百ヨージャナにもわたる存在で、四百ヨージャナにもわたる存在で、五百ヨージャナにもわたる存在でいることが、比丘たちよ、大海における第八番目の希有で不思議な法なのです。そのことを、見た後見た後、阿修羅たちは大海について歓喜するのです。

 同じように、比丘たちよ、この法と律について八つの希有で不思議な法があるのです。そのことを、見た後見た後、比丘たちはこの法と律について歓喜するのです。

何が八つなのでしょうか。

1.大海は次第に深くなり、次第に傾いて、次第に傾斜していき、急にがけになることはないように、同じように、比丘たちよ、この法と律とにおいても、次第に学び、次第に行じて、次第に道があって、急に完全智に通達することはありません。比丘たちよ、この法と律とにおいて、次第に学び、次第に行じ、次第に道があって、急に完全智に通達することがないことが、比丘たちよ、この法と律における第一の希有で不思議な法(ダンマ)なのです。そのことを見た後見た後、比丘たちはこの法と律について歓喜するのです。

2.比丘たちよ、大海が住立したもの(ダンマ)であって、海岸を越えることがないように、同じように、比丘たちよ、私によって施設された声聞たちのための戒条を、私の声聞(弟子)たちは、命のためであっても超えて破ることがありません。比丘たちよ、私によって施設された声聞たちのための戒条を、私の声聞(弟子)たちは、命のためであっても超えて破ることがないことは、この法と律における第二の希有で不思議な法なのです。そのことを見た後見た後、比丘たちはこの法と律について歓喜するのです。

3.比丘たちよ、もし、大海に死者や死骸があるならば、速やかに岸に運び陸地にうちあげるように、同じように、比丘たちよ、戒も守らず悪しき法をもっていて、清らかではなく疑いを起こさせるような行いの人で、仕事に至るまで覆われていて、沙門ではないのに沙門と公言し、清浄行を行っていないのに、清浄行を行っていると公言し、内面は腐って(中から汚れが)漏れ出して、汚濁の中から生まれている人であれば、僧団は彼とは一緒に住むことはありません。ただちにかれを、集まって放出するのです。例え、かれが僧団のまん中に坐っていても、僧の集まりから遠ざけて、僧団は彼と一緒にいることは(ありません)。  比丘たちよ、戒も守らず悪しき法をもっていて、清らかではなく疑いを起こさせるような行いの人で、仕事に至るまで覆われていて、沙門ではないのに沙門と公言し、清浄行を行っていないのに、清浄行を行っていると公言し、内面は腐って(中から汚れが)漏れ出して、汚濁の中から生まれている人であれば、僧団は彼とは一緒に住むことがなく、ただちにかれを、集まって放出し、たとえ、かれが僧団のまん中に坐っていても、僧の集まりから遠ざけて、僧団は彼と一緒にいることがないことは、この法と律において第三の希有で不思議な法なのです。そのことを見た後見た後、比丘たちはこの法と律について歓喜するのです。

4. 比丘たちよ、ガンジス川やヤムナー川やアチラーヴァティー川やマヒー川というような、どんな大河であれ、それらが大海に到達して前の名や姓を捨てると、ただ大海とだけ呼ばれるように、同じように、比丘たちよ、貴族、バラモン、庶民、奴隷の四つの階級の者たちが、如来に教えられた法と律において、家から出て家なき者となって出家し、前の名や姓を捨てて、ただ釈子沙門という名だけ呼ばれるのです。比丘たちよ、貴族、バラモン、庶民、奴隷の四つの階級の者たちが、如来に教えられた法と律において、家から出て家なき者となって出家し、前の名や姓を捨てて、ただ釈子沙門という名だけ呼ばれることは、比丘たちよ、この法と律において第四の希有で不思議な法なのです。そのことを見た後見た後、比丘たちはこの法と律について歓喜するのです。

5.比丘たちよ、世界にある河川の流れが大海に流入し、空からの大雨が降り注ぐとしても、大海は、不足も満杯も認められないように、同じように、多くの比丘たちが無余涅槃の領域で般涅槃するとしても、この涅槃の領域が不足したり満杯になったりすることは認められないのです。たとえ、多くの比丘たちが無余涅槃の領域で般涅槃するとしても、この涅槃の領域が不足したり満杯になったりすることは認められないことが、比丘たちよ、この法と律における第五番目の希有で不思議な法なのです。そのことを見た後見た後、比丘たちはこの法と律について歓喜するのです。

6.比丘たちよ、大海は、一味であって塩の味であるように、同じように、比丘たちよ、この法は、一味であって解脱の味なのです。比丘たちよ、この法が、一味であって解脱の味であることが、比丘たちよ、この法と律における第六番目の希有で不思議な法なのです。そのことを見た後見た後、比丘たちはこの法と律について歓喜するのです。

7.比丘たちよ、大海には多くの宝があり、種々の宝があり、たとえば、そこには、真珠、宝珠、螺鈿、宝石、珊瑚、銀、金、紅玉、瑪瑙というようなこれらの宝があるように、同じように、比丘たちよ、この法には多くの宝があり、種々の宝があるのです。たとえば、四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、聖なる八つの道です。比丘たちよ、この法には多くの宝があり、種々の宝があり、たとえば、四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、聖なる八つの道があることは、比丘たちよ、この法と律における第七番目の希有で不思議な法なのです。そのことを見た後見た後、比丘たちはこの法と律について歓喜するのです。

8.比丘たちよ、大海は、大きな生き物たちの住処であって、たとえば、そこには、大魚、巨大魚、超大魚、阿修羅たち、龍たち、ガンダルヴァたちが、百ヨージャナにもわたる存在で、二百ヨージャナにもわたる存在で、三百ヨージャナにもわたる存在で、四百ヨージャナにもわたる存在で、五百ヨージャナにもわたる存在でいるように、同じように、比丘たちよ、この法と律は、偉大なる生き物たちの住処です。この中には、預流者、預流果を現観するために行道する者、一来者、一来果を現観するために行道する者、不還者、不還果を現観するために行道する者、阿羅漢、阿羅漢位を現観するために行道する者というこれらの生き物たちがいるのです。比丘たちよ、この法と律は、偉大なる生き物たちの住処であって、この中には、預流者、預流果を現観するために行道する者、一来者、一来果を現観するために行道する者、不還者、不還果を現観するために行道する者、阿羅漢、阿羅漢位を現観するために行道する者というこれらの生き物たちがいるということは、この法と律における第八番目の希有で不思議な法なのです。そのことを見た後見た後、比丘たちはこの法と律について歓喜するのです。

 比丘たちよ、これらが、この法と律における八つの希有で不思議な法であります。比丘たちは、このことを見た後見た後、この法と律において歓喜するのです。
 さて、尊師はこの意味するところを知って、この時、このようなウダーナを発しました。

  覆われたものに(煩悩の)雨が漏れ落ちるが、開かれたものには雨が漏れることはない。
  それ故に、覆われたものを開きなさい。こうであれば、それに雨が漏れることはない。//5//






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