心にしみる原始仏典


『サンユッタ・ニカーヤ』22-59.(PTS Text,V.pp.66-8)

五比丘(無我相経)

1.
バーラナシーのミガダーヤ(鹿野園)における因縁である。

2.
そのとき、尊師は、五人の比丘たちに呼びかけた。「比丘たちよ」
「尊師よ」と、比丘たちは答えた。(尊師は)このように言った。

3.【色】
「色は、比丘たちよ、自己ならざるもの(無我、anattan)である。
比丘たちよ、もし色が自己であったのであるならば、この色が、病のために壊れることもないだろう。また、色において、<このように、わたしの色はあれ、このようにわたしの色はあるな>と、いうようにできるはずである。

4.
比丘たちよ、じつに、色は自己ならざるものであるから、色は病のために壊れる。さらに、色において、<このように、わたしの色はあれ。このように、わたしの色はあるな>となすことができないのである。

5.【感受】
感受は、自己ならざるものである。
比丘たちよ、もし感受が自己であったのであるならば、この感受が、病のために壊れることもないだろう。また、感受において、<このように、わたしの感受はあれ、このようにわたしの感受はあるな>と、いうようにできるはずである。

6.
比丘たちよ、じつに、感受は自己ならざるものであるから、感受は病のために壊れる。さらに、感受において、<このように、わたしの感受はあれ。このように、わたしの感受はあるな>となすことができないのである。

7.【表象】
表象は、自己ならざるものである。
比丘たちよ、もし表象が自己であったのであるならば、この表象が、病のために壊れることもないだろう。また、表象において、<このように、わたしの表象はあれ、このようにわたしの表象はあるな>と、いうようにできるはずである。

比丘たちよ、じつに、表象は自己ならざるものであるから、表象は病のために壊れる。さらに、表象において、<このように、わたしの表象はあれ。このように、わたしの表象はあるな>となすことができないのである。

8.【志向作用】
志向作用は、自己ならざるものである。
比丘たちよ、もし志向作用が自己であったのであるならば、この志向作用が、病のために壊れることもないだろう。また、志向作用において、<このように、わたしの志向作用はあれ、このようにわたしの志向作用はあるな>と、いうようにできるはずである。

9.
比丘たちよ、じつに、志向作用は自己ならざるものであるから、志向作用は病のために壊れる。さらに、志向作用において、<このように、わたしの志向作用はあれ。このように、わたしの志向作用はあるな>となすことができないのである。

10.【識別作用】
識別作用は、自己ならざるものである。
比丘たちよ、もし識別作用が自己であったのであるならば、この識別作用が、病のために壊れることもないだろう。また、識別作用において、<このように、わたしの識別作用はあれ、このようにわたしの識別作用はあるな>と、いうようにできるはずである。

11.
比丘たちよ、じつに、識別作用は自己ならざるものであるから、識別作用は病のために壊れる。さらに、識別作用において、<このように、わたしの識別作用はあれ。このように、わたしの識別作用はあるな>となすことができないのである。

12.
それでは、比丘たちよ、考えてみるがよい、色は、恒常だろうか、それとも、無常だろうか。」
「無常です、尊師よ」
「では、無常なるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」
「苦です、尊師よ」
「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己、attan)である>
と見ることは、適当だろうか」
「適当ではありません、尊師よ」

13.
それでは、比丘たちよ、考えてみるがよい、感受は、恒常だろうか、それとも、無常だろうか。」
「無常です、尊師よ」
「では、無常なるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」
「苦です、尊師よ」
「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己、attan)である>
と見ることは、適当だろうか」
「適当ではありません、尊師よ」

14.
それでは、比丘たちよ、考えてみるがよい、表象は、恒常だろうか、それとも、無常だろうか。」
「無常です、尊師よ」
「では、無常なるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」
「苦です、尊師よ」
「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己、attan)である>
と見ることは、適当だろうか」
「適当ではありません、尊師よ」

15.
それでは、比丘たちよ、考えてみるがよい、志向作用は、恒常だろうか、それとも、無常だろうか。」
「無常です、尊師よ」
「では、無常なるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」
「苦です、尊師よ」
「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己、attan)である>
と見ることは、適当だろうか」
「適当ではありません、尊師よ」

16.
それでは、比丘たちよ、考えてみるがよい、識別作用は、恒常だろうか、それとも、無常だろうか。」
「無常です、尊師よ」
「では、無常なるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」
「苦です、尊師よ」
「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己、attan)である>
と見ることは、適当だろうか」
「適当ではありません、尊師よ」

17.
「それだからこそ、比丘たちよ、過去・未来・現在のいずれであれ、内であれ外であれ、粗いものであれ細かいものであれ、劣ったものであれ優れたものであれ、遠くであれ近くであれ、一切の色は、
<これはわたしのものではない>
<これはわたしではない(わたしはこれではない)>
<(これは)わたしの本体(attan)ではない>
と、このように、あるがままに、正しい智慧をもって見られねばならない。

18.
それだからこそ、比丘たちよ、過去・未来・現在のいずれであれ、内であれ外であれ、粗いものであれ細かいものであれ、劣ったものであれ優れたものであれ、遠くであれ近くであれ、一切の感受は、
<これはわたしのものではない>
<これはわたしではない(わたしはこれではない)>
<(これは)わたしの本体(attan)ではない>
と、このように、あるがままに、正しい智慧をもって見られねばならない。

19.
それだからこそ、比丘たちよ、過去・未来・現在のいずれであれ、内であれ外であれ、粗いものであれ細かいものであれ、劣ったものであれ優れたものであれ、遠くであれ近くであれ、一切の表象は、
<これはわたしのものではない>
<これはわたしではない(わたしはこれではない)>
<(これは)わたしの本体(attan)ではない>
と、このように、あるがままに、正しい智慧をもって見られねばならない。

20.
それだからこそ、比丘たちよ、過去・未来・現在のいずれであれ、内であれ外であれ、粗いものであれ細かいものであれ、劣ったものであれ優れたものであれ、遠くであれ近くであれ、一切の志向作用は、
<これはわたしのものではない>
<これはわたしではない(わたしはこれではない)>
<(これは)わたしの本体(attan)ではない>
と、このように、あるがままに、正しい智慧をもって見られねばならない。

21.
それだからこそ、比丘たちよ、過去・未来・現在のいずれであれ、内であれ外であれ、粗いものであれ細かいものであれ、劣ったものであれ優れたものであれ、遠くであれ近くであれ、一切の識別作用は、
<これはわたしのものではない>
<これはわたしではない(わたしはこれではない)>
<(これは)わたしの本体(attan)ではない>
と、このように、あるがままに、正しい智慧をもって見られねばならない。

22.
比丘たちよ、このように見て、(教えを)聞いている聖なる弟子は、色において厭離する。感受において厭離する。表象において厭離する。志向作用において厭離する。識別作用において厭離する。厭離するものは、貪欲から離れ、解脱する。解脱したとき、「解脱した」という知識がある。
滅尽したのは、生まれることである。完成したのは、清浄行である。為したのは、為すべきことであり、さらに、この(輪廻の)状態にいたることはない、と知るのである。」

23.
尊師は、このように言った。心かなえる五人の比丘たちは、尊師の説いたことに歓喜した。そして、この説明が説かれている最中に、五人の比丘たちは、執着なく、煩悩より心が解脱したのである。




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